サスカチュワン準州の悲嘆
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/18 14:12 UTC 版)
「ルイ・リエル」の記事における「サスカチュワン準州の悲嘆」の解説
レッドリヴァーの反乱のあとメティの大部分は西に向かいサスカチュワン渓谷、とりわけサン・ローラン布教所(後のサスカチュワン州グランディン近郊)を中心とした地域の河川支流南側沿いに移住した。1880年代になると、西方への移住はもはやメティやプレーリー地区の先住民の問題点を解決するための万能薬としての役割は果さなくなっていた。バッファローの群れが急速に減少したことで、クリー族やブラックフット族といった先住民の間には飢餓が広まった。1883年には政府からの援助が減らされ、連邦政府が部族との協定を遵守しなかったことにより、事態の悪化に拍車がかかった。 メティは半ば義務的に狩猟を放棄し農業を始めたのも同然であったが、このような変遷はマニトバ州で既に起こったことと似たような土地保有を巡る争いといった複雑な問題を伴うものであった。さらに、ヨーロッパや東部諸州からの移住者もサスカチュワン準州に流入したが、彼らもまた準州の行政運営のあり方に不満を抱いていた。このように事実上あらゆる階層が苦吟しており、1884年にはイギリス系、アングロ-メティ系及びメティからなる地域共同体で会合が持たれ、全般的に対応が遅れがちな政府に対し事態を是正するための請願を行った。 また北西準州のローヌ選挙区では、3月24日に Batoche の集落で支流南部(south branch)のメティの会合が開かれ、30名の代表者がリエルを復帰させメティの主張の代弁を行ってくれるよう求める議決を行った。5月6日にはメティ及びプリンス・アルバートからの英語使用者代表が合同した「移住者連合」の会議が開かれ、オンタリオ州出身移住者でメティに同情的だったウィリアム・ヘンリー・ジャクソン(俗称オナー・ジャクソン)やアングロ-メティ系のジェームス・イズビスター(James Isbister)らが参加した。ここでもリエルの力で連邦政府に苦悩を訴えてもらうように依頼するための使者を送る案が採択された。
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