コーリアーズ・フック
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/03 19:47 UTC 版)
「ロウアー・イースト・サイド」の記事における「コーリアーズ・フック」の解説
イースト川に突き出たこのエリアは、オランダおよびイギリス統治下にはコーリアース・フック (Corlaers Hook) とも呼ばれていた。コーリアーズ・フック (Corlaer's Hook) はコーリアーの(曲がった)岬といった意味である。独立戦争中のイギリス支配下では少しの間、クラウン・ポイント (Crown Point) と呼ばれていた。この名前は、1638年当時レナペ語の名前がヨーロッパ語になまったNechtans、またはNechtanc.と呼ばれていたプランテーションに定住してきた、学校長Jacobus van Corlaerの名前から取られていた。コーリアーはこのプランテーションをニューヨークのビークマン一家の祖であるWilhelmus Hendrickse Beekman (1623–1707) へと売却した。彼の息子en:Gerardus Beekmanは1653年8月17日に、この土地に洗礼名を与えた。コーリアの名前を冠したこのイースト川へと突き出た土地は、300年の間、航海士たちにとって重要な目印であった。古い地図や文書では、この土地は通常'Corlaers' Hookと綴られていたが、19世紀初頭からこの綴りはイギリス英語化されCorlearsとなった。独立戦争時のイギリス占領下のニューヨークにおいてコーリアーズ・フックあたりで無計画に開発された定住地は、より人口の多かった市街地と氷河時代の堆積物による起伏のある丘によって隔てられていた。1843年にある観測者は、「この地域は市の正規のエリアから離れた位置にあり、高く未耕作の起伏に富んだ丘によって隔てられている」と回想している。早くとも1816年には、コーリアーズ・フックは両性ともの街娼によって悪名高い地域となった。1821年の"Christian Herald"には、「通りは夜になると娼婦と盗人のたまり場となっている」と記述されている。19世紀の間には彼らはフッカーズ (hookers) と呼ばれるようになった。1832年のコレラ流行の夏、木造二階建ての作業場が簡易コレラ病院へと転換された。7月18日から9月15日の間に黒人、白人の281人のコレラ患者が認められ、そのうち93人が死亡した。 元々のコーリアース・フックの海岸線は埋め立てにより曖昧になっているが 、それは現在のチェリー・ストリート(英語版)近くのFDRドライブをまたぐ歩道橋の東端あたりであった。この地域のかつての名前は、イースト・リバー・ドライブ沿いのジャクソン・ストリート (Jackson Street) とチェリー・ストリートの交差点にあるコーリアーズ・フック公園 (Corlear's Hook Park) の名前の中に保存されている。
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