コヴェント・ガーデン後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/11 02:57 UTC 版)
「エマ・アルバーニ」の記事における「コヴェント・ガーデン後」の解説
1896年にロイヤル・オペラ・ハウスを辞めた後、アルバーニはカナダに演奏旅行に赴き、国中で公演をして回った。1898年には、オーストラリアにもツアーに出かけている。また、英国ではオラトリオの公演で活躍していた。1901年にヴィクトリア女王が亡くなるとすぐにロンドンへ入り、そこで最後の礼拝の独唱を受け持った。1908年の春、ヴェテランとなっていたアルバーニはある興行団体についてイングランド中を演奏旅行で回った。その会社には2人の才能の伸び盛りがいた。2年後にテオドル・レシェティツキの最後の弟子となる10歳のピアニスト、マリー・ノヴェロ(英語版)とひと月前にロイヤル・オペラ・ハウスでデビューしたばかりのジョン・マコーマック(英語版)である。1911年10月14日が、アルバーニの公での最後の歌唱となった。同年、彼女は書籍を出版する。「40年の歌の歩み Forty Years of Song」である。この本は事実上の自叙伝といえ、歌唱法について有意義な助言を与えるとともに、幼年期、旅行、キャリア、仲間の演者の印象、そして生涯を通じて出会った王族について詳述する内容となっている。 アルバーニ夫妻は第一線を退き、ケンジントンに落ち着いた。投資がうまくいかず財産を多く失ってしまい、アルバーニは収入を得るため音楽の授業をしなければならなかった。1925年に夫に先立たれ状況は悪化したが、友人らが開く慈善演奏会がアルバーニにとって十分な収入源となった。彼女は1930年4月3日 に、ケンジントンのトレグンター通り(Tregunter Road)の自宅でこの世を去り、ブロンプトン墓地に夫とともに埋葬された。
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