コンピュータ・タイポグラフィー
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/06 09:36 UTC 版)
「ヘルマン・ツァップ」の記事における「コンピュータ・タイポグラフィー」の解説
1960年代より、ツァップはタイポグラフィーをコンピュータ・プログラム上で行うようになった。彼の考えは急進的だと思われてドイツでは受け入れられず、1972年から1981年にかけて教壇に立ったダルムシュタット工科大学から却下された。ドイツで全く名を成せなかったため、ツァップは新しいアイデアが受け入れられる土壌を備えたアメリカへと渡った。彼はコンピュータ・タイプセッティングに関する講義をし、1964年にはハーバード大学でのスピーチを依頼されるまでになった。オースティン市のテキサス大学もツァップに興味を抱き、大学教授に迎え入れようとした。しかしツァップの妻がテキサスに行くことを嫌がり、空から一瞥しただけで、ツァップのテキサスでの夢は終わった。 アメリカでの計画が無に帰してしまい、フランクフルトの家が手狭過ぎたため、ツァップは妻を伴い1972年にダルムシュタットへ移住した。1976年、ロチェスター工科大学がツァップに世界初のタイポグラフィック・コンピュータ・プログラミングの教授職を打診してきた。彼は1977年から1987年の間、ロチェスターとダルムシュタットを飛行機で往復しながら教壇に立った。そこでコネクションのあったIBMやXeroxといった企業の助けを借り、またロチェスター在住のコンピュータの専門家と議論し、理論を発展させていった。1977年、ツァップと友人のアーロン・バーンズ、ハーブ・ルバーリンはニューヨークで Design Processing International, Inc. という会社を設立し、タイポグラフィーに関するコンピュータ・ソフトウェアの開発を行った。会社は1986年にルバーリンの死と共に閉鎖され、ツァップとバーンズは1987年に新たに Zapf, Burns & Company を設立した。バーンズも書体デザインとタイポグラフィーの専門家であったが、1992年に亡くなるまでマーケティングに関わっていた。前に、社員2名がツァップのアイデアを盗用して会社を興すという事件が発生していた。ツァップはアメリカの会社をダルムシュタットで運営することは不可能だと分かっていたが、ニューヨークに移住することもしなかった。代わりに、ハンブルクにあるURW Software and Type社とhzプログラムというタイプセッティング・プログラムの開発を始めた。1990年代中盤のURW社の経済問題と破産を受け、アドビ・システムズ社がhzプログラムの特許を買収し、後にInDesignのプログラムに生かされることとなる。
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