コスワースから独立~CART参戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/08 08:41 UTC 版)
「イルモア」の記事における「コスワースから独立~CART参戦」の解説
コスワースに所属していたイリエンとモーガンが出会った時期、F1などの国際的なレースでは多くのチームがコスワースのエンジンを使用していた。それによる勢力の均衡化が要因で、あまり意欲的な試みが行わなくなったことに2人は不満を募らせていた。特にCARTに関してそれが著しく、ほとんど全てのチームがコスワース・DFXを使用していたために、エンジンメーカー同士の競争はなくなっていた。 そうした状況の中2人は、アメリカレース界の名門でありCARTに参戦していたペンスキー・レーシング代表のロジャー・ペンスキーに電話によるコンタクトを試み、新規にエンジンを開発するための協力を取り付けることに成功する。2人はコスワースを退社し、1984年1月、イルモア・エンジニアリングを設立するに至る。この際、イギリス・ブリックスワースに新たに工場を建設し、同年12月から稼動を開始した。 2年の開発期間を経て完成した第一作、イルモア・265Aのヘッドカバーには、スポンサーとして資本参加を決定したゼネラルモーターズのスポーツ的イメージリーダーを担うシボレーのロゴが入り、またエントリー名もイルモア-シボレーとしてCARTに参戦することとなった。 デビュー年の結果はかんばしいものではなく、エンジントラブルを頻発した。シーズン前半から中盤にかけて原因の判然としないトラブルに悩まされたものの、ようやく原因を突き止めて改善すると信頼性が回復。3位表彰台に2度上がり、CART初参戦、そしてイルモアとして処女作ということを考えれば上々の結果を残した。 1987年、前シーズンでの成績によってオファーを受け、採用するチームが増加。ペンスキー・レーシングに加え、パトリック・レーシング、ニューマン-ハース・レーシングという強豪チームにもイルモア製エンジンが搭載されることとなった。このシーズンも初期トラブルに苦しめられたものの、最終的には15戦中5回の優勝を飾った。また予選において8回のポールポジションを獲得するなど速さを見せ、実質的な実力に於いて有力エンジンサプライヤーであるコスワースやジャッドと比肩することを証明した。 1988年、この年はまさに他者を圧倒するシーズンとなり、15戦中14回のポールポジション、それと同数の優勝をイルモア製エンジンを搭載したマシンが獲得。他メーカーもこれに対抗するべく、新エンジンの投入など戦闘力の向上に努めるが、1989年も15戦中13回の優勝、翌年1990年は15戦全勝と、敵なしの強さで圧倒した。
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