コス島の戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/11 16:46 UTC 版)
詳細は「コス島の戦い(英語版)」を参照 コス島には連合軍側唯一の飛行場があったため、ドイツ空軍は9月18日からコス島に対する爆撃を始めた。同時に、航空機の増援も到着し始め、10月1日までにこの地域のドイツの作戦機は362機になった。 コス島の連合軍兵力はイギリス軍は約1,500名、イタリア軍約3,500名であった。10月3日、ドイツ軍は島への上陸(アイスベーア (Eisbär) 作戦)を成功させ、その日のうちに島の中心地郊外にまで達した。イギリス軍は夜の内に撤退し、翌日降伏した。コス島の失陥は連合軍にとって大きな打撃となり、連合軍は航空支援を失うことになった。 9月11日、ヒトラーによって捕虜となったイタリア軍士官に対する処刑命令が発令されたため、コス島占領後の10月3日、ドイツ軍はコス島駐留イタリア軍の指揮官フェリーチェ・レッジョ(Felice Leggio)をはじめとした111名の士官を処刑した。
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