ケーブル牽引か機関車牽引か
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/21 13:39 UTC 版)
「リバプール・アンド・マンチェスター鉄道」の記事における「ケーブル牽引か機関車牽引か」の解説
1829年の時点では、粘着運転の機関車に対する信頼性が十分に認められていなかった。一方でストックトン・アンド・ダーリントン鉄道での実績はよく知られており、ヘットン炭鉱鉄道(Hetton colliery railway)では一部区間がケーブル牽引に置き換えられていた。後者では蒸気機関車は試験されていなかったものの、ケーブル牽引による成功の実績は無視できないものであった。本鉄道においても、法案審議の際には蒸気機関車の使用についてあまり強調しないようにしていた。当然だが当時は蒸気機関車は知られておらず、絶えず煙を吐き出して走る機関車への世間からの反発を恐れた結果であった。さらに、時代の関心はゴールズワーシー・ガーニー(Goldsworthy Gurney)が実験していたような、蒸気自動車に向いていた。このため取締役会でも、スチーブンソンを含む機関車の推進派と、ケーブル牽引の推進派とで意見が分かれていた。後者の意見は、技師のジョン・アーペス・ラストリック(John Urpeth Rastrick)によって支持されていた。スチーブンソンが機関車の導入を訴えたのは、1箇所でも破損すると路線全体が運行不能になるというケーブル牽引の欠点を重く見た結果であった(ただしケーブル牽引は上記のように実用実績があったため、そちらについても反対という訳ではなかった)。 路線の断面勾配は、急勾配区間を3箇所(レインヒルの両側に100分の1(10パーミル)、リバプールの埠頭へ向かう下りに50分の1(20パーミル))に集めて、それ以外の区間は極めて平坦なおよそ2000分の1(0.5パーミル)に抑えるように設計されていた。機関車を使うべきかどうか、どの機関車が適当であるかを決定するために、会社はレインヒル・トライアルを実施した。最終的に路線が開通した時には、エッジ・ヒルからクラウン・ストリート駅(Crown Street railway station)へ向かう最後の旅客輸送区間については、ワッピングトンネルの下り勾配のためにケーブル牽引にされた。
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