グレープでデビューとは? わかりやすく解説

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グレープでデビュー

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 02:31 UTC 版)

さだまさし」の記事における「グレープでデビュー」の解説

國學院大學法学部進学するペンキ屋(塗装工員)など、数々アルバイトしながらの生活を送るが、肝炎患ったことをきっかけ長崎帰郷する1972年高校時代からの友人吉田正美(現:政美)が東京から長崎にいる さだを訪ねそのまま さだ家に住むこととなったその際吉田仕事無断退職して失踪状態で長崎にやって来たことから、さだは吉田叱責して東京帰るよう諭すつもりでいたが、彼の姿を見て思わず「おい!よく来たなあ」と言ってしまったため叱責することができなくなったという。以後二人意気投合し同年11月3日バンドグレープ」を結成音楽活動開始する11月25日NBCビデオホール開かれた初めてのコンサートには定員300余り客席250程度聴衆しか集まらず、さだの弟・繁理が通りすがりの人を無理にでも引き込むようなこともあったという(このやり方をさだは「キャバレー方式」と呼んだ。)。やがて音楽プロデューサー川又明博にスカウトされ1973年10月25日に「雪の朝」でワーナー・パイオニア(現:ワーナーミュージック・ジャパン)より全国デビューした。所属事務所プロダクション)はユイ音楽工房ヤングジャパングループなどを当たるが不採用となり、最終的に赤い鳥事務所ザ・バードコーポレーションで預かる形で、デビュー至ったデビュー曲雪の朝」は8000しか売れず友人らがレコードを買い込んで知り合い無理に買わせるといった状況であったという。1974年4月25日第2作目シングル精霊流し」を発表するが、まだ無名のフォークデュオであったからか、当初売り上げ芳しくないのだった。しかし、東海ラジオ深夜番組ミッドナイト東海』の中で、アナウンサー蟹江篤子担当曜日毎週のように流し続けた。これが助力となって、同番組放送エリア名古屋地区のみならず全国的なヒットとなり、この年第16回日本レコード大賞作詩賞を受賞することとなった1975年11月リリースした無縁坂」もヒット曲となった。しかし、そのころからさだは再び肝炎患いプロデューサー1年間休養打診したが、聴衆から忘れられるという理由断られている。また「縁切寺」(アルバム曲)のヒット、「雰囲気変えるため」に出された、「朝刊」が思うようヒットしなかったことが重なってしまったこと、つまり「グレープ音楽は暗い」というイメージがついてしまい、自分たちのやりたい音楽受け手との齟齬(そご)が生じたため、1976年春に解散した。なお、さだは解散コンサートにて解散の理由を「精霊流し無縁坂縁切寺ときたらあとは墓場しかない」と述べている。

※この「グレープでデビュー」の解説は、「さだまさし」の解説の一部です。
「グレープでデビュー」を含む「さだまさし」の記事については、「さだまさし」の概要を参照ください。

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