グプタ朝における形成と後代の散逸
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「サンスクリット経典」の記事における「グプタ朝における形成と後代の散逸」の解説
仏典の本格的なサンスクリット化が始まったのは、インドの伝統文化復興を掲げてサンスクリットを公用語としたグプタ朝が成立した4世紀以降である。グプタ朝の時代は、ヒンドゥー教の勃興・形成期であると同時に、大乗仏教の形成・発展期でもあった。したがって、大乗仏教経典を中心に、仏典はこれ以降、サンスクリットで表記・継承されることになった。 グプタ朝の下では、首都であるパータリプトラの南近郊、ラージャグリハ(王舎城)北側に、これ以降インド仏教の中心機関となるナーランダー大僧院が設立され、大乗仏教についての研究・研鑽が行われた。玄奘はここで仏教を学び、膨大なサンスクリット経典を持ち帰ってそれを漢訳し、漢訳経典の中心的地位を占めた。また、チベット仏教も、ここから派遣されたシャーンタラクシタ等インド僧によって形成され、そのサンスクリット経典がチベット語へと翻訳される形で、膨大なチベット語経典が形成された。 こうして北伝仏教においては、大乗仏教のサンスクリット経典が、原典たる地位を占めることになった。 しかし、それを担っていたナーランダー大僧院やヴィクラマシーラ大僧院といったインド仏教の中心機関が、12世紀末から13世紀初頭のイスラム勢力による侵攻で崩壊し、インド仏教の命脈が絶たれてしまったことで、サンスクリット経典のほとんどは、インドから消滅・散逸してしまうことになった。また、それを継承した中国やチベットでも、漢語・チベット語への翻訳が終わった後は、それらの言語による継承が主流となり、そのサンスクリット原典のほとんどが散逸してしまった。
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