キーン作戦
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詳細は「馬山の戦い(英語版)」、「西北山の戦い(英語版)」、「咸安の戦い(英語版)」、および「南江の戦い(英語版)」を参照 8月7日、国連軍は最初の反撃を行った。馬山正面の北朝鮮第6師団(7,500人)を撃破して釜山西部を安全にすることと、大邱への圧力を緩和するためであった。第25歩兵師団や第5連隊戦闘団など合計2万4千人、戦車部隊として合計101輌のM4A3とM26パーシングがキーン支隊を構成した。鎮海湾に展開した空母からはF4Uコルセアが支援にあたった。この戦力をもって、3方向から晋州峠、泗川(サチョン)を目指して攻撃を開始した。 しかし、キーン支隊のこの攻勢は北朝鮮第6師団の攻撃と衝突して主補給路が遮断される等の混戦となった。戦線は前線も後方も区別がつかないほど、彼我は入り乱れていた。8月9日、ようやく補給路を啓開すると各攻撃縦隊の突進は順調に進展し、8月11日には海兵隊が固城(コソン)、第35連隊は晋州峠を占領した。しかし山間部でゲリラ的戦法を行った北朝鮮軍に対してアメリカ軍は戦車を活用することが出来ず、8月12日には海兵隊が泗川南側で待ち伏せを受け、中央を進撃した第24連隊が鳳岩里(ポンアムニ)で襲撃を受け、砲兵2個大隊が壊滅した。キーン支隊は北朝鮮第6師団に4千人以上の損害を与えたが、キーン支隊も損害を受け、第8軍は8月13日にキーン作戦を中止、8月16日にキーン支隊は編組を解かれた。国連軍は馬山の北朝鮮軍を撃破することは出来ず、北朝鮮軍はこの攻勢に対して大邱の部隊を転用しなかったため、大邱正面の兵力を吸収する目的も達成できなかった。結果、北朝鮮軍の攻撃を撃退して馬山を安全にすることは出来たが作戦は失敗とされた。 方虎山少将の率いる北朝鮮第6師団はキーン作戦で大きな損害を受けたが、その後、9月20日まで続く山地の争奪戦を戦うことになった。
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