ガルニエの名を冠したもの
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/02/26 05:42 UTC 版)
「フランシス・ガルニエ」の記事における「ガルニエの名を冠したもの」の解説
ガルニエの死から10年後の1883年、フランス海軍士官のアンリ・リヴィエール(英語版)が、トンキンで黒旗軍によって、驚くほど酷似した状況の下で殺された。 リヴィエールもガルニエ同様に、フランス領インドシナ時代にトンキン征服の特別な殉職者として賞賛されていた。 1884年の清仏戦争の最中には、トンキン群(英語版)に所属していた砲艦2隻がガルニエとリヴィエール2人の名を与えられた。 1884年11月から1885年3月のトゥエンクアン包囲戦(英語版)の際、清軍の一部となっていた黒旗軍はフランス軍の陣営に向けて「ガルニエ!リヴィエール!ガルニエ!リヴィエール!」と、有名な戦死者たちの名を叫んで罵倒したという。 1943年、フランス領インドシナはガルニエを記念した切手を発行した。 パリ17区にはフランシス=ガルニエ通り(フランス語版)があり、アルジェリア民主人民共和国シュレフ県の都市ブニ・アウア(フランス語版)は、フランス統治時代には「フランシス・ガルニエ」と称されていた。 ガルニエの名を冠した艦として、駆逐艦(英語版)の他に砲艦(先述の砲艦とは別)があったが、第二次世界大戦中にカンボジアのクラチエ近くで日本軍との戦闘で自沈した。戦後にはイタリア海軍から戦時賠償艦として編入された通報艦も登場した。 1973年、シャンプレーン級中型揚陸艦の軽輸送艦(BATRAL)初期型の2番艦として、ガルニエの名を冠した揚陸艦(英語版)が登場した。この艦は長く現役にあり、2010年のハイチ地震の際には「ハイチ地震作戦2010(英語版)」に加わって、人道援助の任に就いた。同艦はマルティニークから、60名のフランス陸軍の兵員と車両や油圧ショベル類、その他の支援物資を輸送した。翌2011年2月16日に退役となった。 1983年、ガルニエとドゥダール・ド・ラグレが埋葬されていたホーチミン市の墓地が撤去されることとなった際に、フランス総領事であったジャン=フランソワ・パロは、この二つの墓を徹底的に調査した。発掘した遺骸を火葬した総領事は、遺灰をシンガポールへ移送することを国防大臣のシャルル・エルニュ(英語版)に提案し、ヘリ空母ジャンヌ・ダルクと、護衛艦ドゥダール・ド・ラグレ(フィンランド語版)が派遣された。移送中、艦上では式典が執行された。 1987年、パリ5区と6区の境界の角のカミーユ=ジュリアン広場(フランス語版)にある、彫刻家デニス・ピュエシュ(英語版)によるガルニエの胸像を組み込んだ記念碑(フランス語版)に、ガルニエの遺灰が納められた。
※この「ガルニエの名を冠したもの」の解説は、「フランシス・ガルニエ」の解説の一部です。
「ガルニエの名を冠したもの」を含む「フランシス・ガルニエ」の記事については、「フランシス・ガルニエ」の概要を参照ください。
- ガルニエの名を冠したもののページへのリンク