カメラ開発
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/11 19:17 UTC 版)
レジスターの量産からカメラ開発に転身した間宮は、まず、他にあまり類を見ない、フィルム面の前後移動によりフォーカシングを行うバックフォーカシング機構を完成させた。その発明「寫眞器ニ於ケル焦點調整装置」(実用新案第294734号)は1939年(昭和14年)に出願され1940年(昭和15年)に公告されている(実公昭15-14673)。また創業にあたっては、写真の弟子であった菅原恒二郎が銀行家であった父を紹介して資金調達し、菅原恒二郎が社長、間宮精一が技師長となり1940年5月にマミヤ光機製作所を設立した。 マミヤ光機はバックフォーカシング機構を採用し製品化したカメラ「マミヤシックス」を発売した。軍隊などの機関に予約販売する方法を新しく取ったところ意外に反響が大きく申込者250人、予約金は6万円に達したが、精一は「納得いかない機械は出さない」が信条で改良を重ねて納期が遅れ、始末書を取られたこともあったという。 間に戦争もあったものの、その後もマミヤ光機は順調に成長し、各種のカメラを設計・生産した。マミヤ光機は後にオリムピックと合併しマミヤ・オーピーとなった。 間宮自身は、レンズ交換式二眼レフカメラの基礎発明を終えると、1955年に同社顧問に退いた。1966年にマーシャル光学を設立、マーシャルプレスを設計発売している。 昭和天皇崩御の前日である1989年1月6日(昭和64年1月6日)に亡くなった。
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