カプタン・パシャ時代(1572年 – 1587年)
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「クルチ・アリ」の記事における「カプタン・パシャ時代(1572年 – 1587年)」の解説
当時の大宰相ソコルル・メフメト・パシャは、生き残ったクルチらを抜擢して半年で大艦隊を再建させる。その命を受けたピヤル・パシャ(英語版)とクルチ・アリ・パシャは、直ちにオスマン海軍の再建を開始した。クルチ・アリ・パシャが特に重視したのは、ヴェネチアのガレアス船よりも重装型の船の建造数を増やすこと、ガレー船の砲兵をより重装にすること、そして乗船員に銃火器を装備させることであった。1572年6月、カプタン・パシャとして、彼は250隻のガレー船と無数の小型船を伴い、レパントの海戦の報復のため出港した。彼はペロポネソス半島の入り江に停泊しているキリスト教勢力の艦隊を発見したが、この艦隊は罠に掛かって包囲される事態を警戒していたため、敵を誘い出し波状攻撃によって打撃を与えるという彼の戦略は十分な成果を挙げられなかった。 1573年、クルチ・アリ・パシャはイタリア沿岸への行軍を指揮した。この時期の数年間で、アルジェの支配権はハフス朝のムハンマド4世に移っており、レパント海戦の勝者であるドン・フアン・デ・アウストリアによってチュニスがスペイン側へ奪還されていた。1574年7月、クルチ・アリ・パシャは250隻のガレー船とシャガラザード・ユスフ・シナン・パシャ(英語版)率いる大軍勢を伴いチュニスへ進攻(英語版) 、1574年8月25日にラ・グレットの軍港を制圧、同年9月13日にはチュニス市街を占拠した。この遠征の最中、1574年7月26日には、クルチ・アリ・パシャの軍勢はモロッコの海岸線沿い、スペイン本土のアンダルシア州を臨む地にオスマン軍の要塞を築いた。 彼は1576年にはカラブリア州を奇襲し、また1578年にはアルジェでムハンマド4世を暗殺したイェニチェリの暴動を鎮圧した。1584年には、クリミア半島への海上遠征を指揮した。1585年には、アレクサンドリアを拠点とするオスマンエジプト艦隊がシリア・レバノンで叛乱を起こしたが、これも鎮圧した。 クルチ・アリ・パシャは1587年6月21日、イスタンブールで没した。遺骸はクルチ・アリ・パシャモスク(英語版)に埋葬された(1580年)。これはオスマン帝国最盛期を代表する建築家、ミマール・スィナンの設計によるものである。
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