カプタン・パシャ時代とは? わかりやすく解説

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カプタン・パシャ時代(1572年 – 1587年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/17 15:50 UTC 版)

クルチ・アリ」の記事における「カプタン・パシャ時代(1572年1587年)」の解説

当時大宰相ソコルル・メフメト・パシャは、生き残ったクルチらを抜擢して半年大艦隊を再建させる。その命を受けたピヤル・パシャ(英語版)とクルチ・アリ・パシャは、直ちオスマン海軍再建開始した。クルチ・アリ・パシャが特に重視したのは、ヴェネチアガレアス船よりも重装型の船の建造数を増やすこと、ガレー船砲兵をより重装にすること、そして乗船員に銃火器装備させることであった1572年6月、カプタン・パシャとして、彼は250隻のガレー船と無数の小型船伴いレパントの海戦報復のため出港した。彼はペロポネソス半島入り江停泊しているキリスト教勢力艦隊発見したが、この艦隊は罠に掛かって包囲される事態警戒していたため、敵を誘い出し波状攻撃によって打撃与えるという彼の戦略十分な成果挙げられなかった。 1573年、クルチ・アリ・パシャはイタリア沿岸への行軍指揮した。この時期数年間で、アルジェ支配権ハフス朝ムハンマド4世移っており、レパント海戦勝者であるドン・フアン・デ・アウストリアによってチュニススペイン側奪還されていた。1574年7月、クルチ・アリ・パシャは250隻のガレー船とシャガラザード・ユスフ・シナン・パシャ(英語版率い大軍勢を伴いチュニス進攻英語版) 、1574年8月25日ラ・グレット軍港制圧同年9月13日にはチュニス市街占拠した。この遠征最中1574年7月26日には、クルチ・アリ・パシャの軍勢モロッコ海岸線沿い、スペイン本土アンダルシア州を臨む地にオスマン軍要塞築いた。 彼は1576年にはカラブリア州奇襲し、また1578年にはアルジェムハンマド4世暗殺したイェニチェリ暴動鎮圧した1584年には、クリミア半島への海上遠征指揮した1585年には、アレクサンドリア拠点とするオスマンエジプト艦隊がシリア・レバノンで叛乱起こしたが、これも鎮圧した。 クルチ・アリ・パシャは1587年6月21日イスタンブール没した遺骸はクルチ・アリ・パシャモスク(英語版)に埋葬された(1580年)。これはオスマン帝国最盛期代表する建築家ミマール・スィナン設計よるものである。

※この「カプタン・パシャ時代(1572年 – 1587年)」の解説は、「クルチ・アリ」の解説の一部です。
「カプタン・パシャ時代(1572年 – 1587年)」を含む「クルチ・アリ」の記事については、「クルチ・アリ」の概要を参照ください。

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