カイドゥ・ウルスとの会戦
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「バヤン (ジョチ家)」の記事における「カイドゥ・ウルスとの会戦」の解説
1296年(元貞2年)にはヨブクル、ウルス・ブカ、ドゥルダカら三王侯がカイドゥ・ウルスから大元ウルスに投降するという大事件が起こった。これに危機感を覚えたカイドゥは大元ウルスに対して攻勢に出て、1300年(大徳2年)の戦いではドゥア率いる軍団が油断していたココチュ率いる大元ウルスの軍勢を急襲し、大元ウルス軍は潰走して将軍の一人高唐王コルギスが捕虜となる大敗北を被った。 このようにカイドゥ・ウルスと大元ウルスの軍事的対立が深まる中、バヤンは大元ウルスのオルジェイトゥ・カーンに使者を派遣してカイドゥ・ウルスを共通の敵とする軍事同盟を申し出た。しかし、病弱なオルジェイトゥ・カーンに代わって国政を主導する皇太后ココジンは「キタイ(=華北、旧金朝領)とナンギャス(=江南、旧南宋領)の国にある我々のウルス(=大元ウルス)は大きく、カイドゥとドゥアの地方は遠い」ため、「そのこと(カイドゥ・ウルスの打倒)が解決するまで1,2年の期間が必要となる」ことを理由に協力体制は締結するものの、すぐにはカイドゥ・ウルスの挟撃体制の構築はできないと回答した。一方、この動きを察知したカイドゥは自らの息子ヤンギチャル、メリク・テムルら率いる軍団を派遣してバヤンと大元ウルスの連携を防ぎ、ヤンギチャルの攻撃によってオルダ・ウルスは困窮したという。 バヤンの遣使から2・3年後、遂に大元ウルス軍とカイドゥ・ウルス軍の間に大会戦が繰り広げられ(テケリクの戦い)、この戦闘で負傷したカイドゥは間もなく亡くなった。この大会戦にバヤンがどのように関わったかは定かではないが、これに続く大元ウルス軍のカイドゥ・ウルス領への侵攻にはバヤンも加わった。『集史』「ジョチ・ハン紀」には1303年1月-2月頃にバヤンがフレグ・ウルスのガザン・ハンに使者を派遣し、「トクタが派遣した2万の援軍とともにバヤンは大元ウルス軍と合流しようとしており」、「フレグ・ウルス軍もまたカイドゥ・ウルス打倒のために出兵してほしい」と伝えたことが記録されている。このバヤンによる使者の派遣からほぼ7月後、ドゥア・チャパル・メリクテムルら旧カイドゥ・ウルス首脳陣は残らず大元ウルスに投降し、「カイドゥの乱」は名実共に終結した。その直後、大元ウルスから「諸王伯顔(バヤン)」に対して9万錠が下賜されたが、この「諸王伯顔」こそカイドゥ・ウルス討伐に大きく貢献したオルダ・ウルスのバヤンを指すと考えられている。
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