オペラ化許諾を巡って
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/27 01:08 UTC 版)
「カヴァレリア・ルスティカーナ」の記事における「オペラ化許諾を巡って」の解説
マスカーニは著者ヴェルガのオペラ化許諾を得ないまま作曲を進めた。事後承諾を試みたとき、初めヴェルガは台本作家タルジョーニ=トッツェッティとメナッシが介在していることを嫌い、ヴェルガ自身の戯曲を一字一句に至るまで忠実に再現することを望んだが、マスカーニは「これはあなたの『カヴァレリア』を忠実に再現するものです」と返答して了承を得た。 コンクール応募前の1889年4月に両者は合意文書に署名した。しかしそこで交わされた覚書は「コンクール以後の上演については、ヴェルガは法律に規定された通りの権利を享受する」という紳士協定的なものに過ぎず、金銭面の具体性を全く欠いていた。これはオペラ作品が大成功を収めることをマスカーニもヴェルガも想像していなかったことの傍証ともなろう。 初演の成功後、コンクール主催者であり、いまやオペラ『カヴァレリア』の出版権者となったソンゾーニョ社はヴェルガに1000リラの提供を申し出た(これはコンクールの最優秀台本賞金額と同額)が、ヴェルガはこれを拒絶、訴訟を提起した。この裁判は1893年に、ソンゾーニョ社がヴェルガに当初提示額の150倍近く、14万3000リラを支払うことで和解成立となった。しかしオペラ化権を巡る争いはそれ以降も継続する。約10年後、今度はヴェルガがドメニコ・モンレオーネなる作曲家に『カヴァレリア』のオペラ化を新たに許諾してしまう。モンレオーネ版は1907年にオランダ・アムステルダムで初演され、そこそこの成功を収めた、と伝えられる。しかしソンゾーニョ社とマスカーニは同作品の上演停止を裁判所に訴え、今回は彼らの全面勝訴となり、モンレオーネ作品の以後の上演は(少なくともイタリア国内では)禁止となった。
※この「オペラ化許諾を巡って」の解説は、「カヴァレリア・ルスティカーナ」の解説の一部です。
「オペラ化許諾を巡って」を含む「カヴァレリア・ルスティカーナ」の記事については、「カヴァレリア・ルスティカーナ」の概要を参照ください。
- オペラ化許諾を巡ってのページへのリンク