ウェストポイントとベネディクト・アーノルドの陰謀 1779年-1780年
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「ロバート・ハウ」の記事における「ウェストポイントとベネディクト・アーノルドの陰謀 1779年-1780年」の解説
ハウはその指揮官任務の一部として、ワシントンから軍法会議の主催者に選ばれた。この軍法会議は、ベネディクト・アーノルドが1778年から1779年にフィラデルフィアの指揮官を務めたときに、その行動の妥当性を判断するために招集された。この期間にアーノルドはイギリス商人と取引をしたとされており、数ある不正行為の中でもその地位には不適切な私的商取引を実行したというものだった。コネチカットのミドルタウンにあったハウの作戦本部で招集されたこの裁判は、イギリス軍から攻撃される恐れがあったために数か月間休会され、1779年12月に再招集、1780年1月に閉廷となった。1779年秋の休会中に、ハウはワシントンから、フランス海軍と組んで陸海からイギリス軍を攻撃できる位置に移動するよう命じられたが、フランスによるニューヨーク襲撃は実現されなかった。軍法会議は1780年1月26日に判決を出し、アーノルドは敵港からの船がフィラデルフィアに入ることを認めたことで戦争の規約に違背したとして有罪となり、ワシントンがアーノルドを譴責することを推奨した。 1780年2月21日、ハウはウェストポイントの砦に駐屯する大陸軍指揮官となった。それはベネディクト・アーノルドがその要塞をイギリス軍に引き渡そうとした陰謀の直前のことだった。大陸会議におけるアーノルドと支持者数人がワシントンを説得して、1780年8月3日に砦の指揮権をアーノルドに渡させた。ハウは戦争の残り期間をハドソン川バレー上流で活動し続け、特にダブルスパイであるジョシュア・ヘット・スミスなど地域のスパイ・ネットワークを監督した。スミスは後にアーノルドの裏切りと告発で重要な役割を演じた。この期間、ハウとイギリス軍が対話していたということを示す証拠が現れたが、ワシントンはこれがイギリス軍ヘンリー・クリントン将軍による攪乱のための噂に過ぎないと片づけた。ハウは、アーノルドの陰謀に加担していたイギリス軍士官ジョン・アンドレ少佐の軍法会議を主宰し、スパイ容疑で死刑に処した。
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