ウィリアム・ドラモンドの攻撃
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/02 08:19 UTC 版)
「エリー砦包囲戦」の記事における「ウィリアム・ドラモンドの攻撃」の解説
ウィリアム・ドラモンド中佐の部隊はロイヤル砲兵隊砲手の小さな分遣隊、第41歩兵連隊と第104歩兵連隊のフランク中隊、ドブス海軍中佐の指揮するイギリス海兵隊50名とイギリス海軍の水兵90名で構成されていた。砦への攻撃は当初ほとんど進まなかった。暗闇に覆われ、戦場に掛かっていた深い煙を使って、ドラモンドは兵士を堀の中に移動させて、北東の稜堡を攻撃させた。イギリス部隊はそこの完全な急襲に成功してアメリカ砲兵を捕まえた。アメリカ兵は直ぐに大砲を捨てて逃亡した。ジョン・ウィリアムズ大尉とパトリック・マクドナウ中尉が指揮していた兵士は立ち塞がって戦ったが、直ぐに殺され、ドラモンドは「忌々しいヤンキーに慈悲はいらない!」と叫んでいた。アメリカ第21歩兵連隊(マサチューセッツ州で編成)の兵士集団がパレード広場で再編成し、稜堡に銃弾の雨を注いだ。この一斉射撃でドラモンドが戦死したと考えられている。あるアメリカ兵に拠れば、戦いの真っ最中に「赤服の悪魔がパイクで武装し、自分の死のために叫んでおり、我々は彼に即座に死を与えた。彼は我々の足元から遠くないところ、マスケット銃の長さも無い所に倒れた」と話していた。 攻撃隊は2つの兵舎の隙間7フィート (2.1 m) を通って2度突撃し、パレード広場に入ったが、兵舎や食堂の中にまでは入ることができなかった。守備隊は北東の稜堡を取り返そうとしたが、追い返された。ドラモンド将軍はこの攻撃隊を補強するためにロイヤル・スコッツの第1大隊から2個中隊を送っただけだった。この部隊はその半数を失い、砦に到達したのは極少数だった。押し込んだり押し返したりしながら1時間近くを戦った後、アメリカ兵が後方凸角堡の18ポンド砲を、50ヤード (45 m) 足らずしか離れていない稜堡にむけ直して砲撃を始めた。イギリス兵も捕獲した大砲の1つを向け直して応じ、アメリカ軍の18ポンド砲をその砲架から外させた。 イギリス部隊が捕獲した大砲で砲撃を始めてから間もなく、その足下にあった稜堡の大きな火薬庫に火が付いた。爆発は激しく、稜堡の全体と付属する兵舎のほとんどを破壊した。重さ2トンある大砲が砦から100ヤード (90 m) も放り出された。この稜堡で150名ないし230名、主にイギリス兵とカナダ兵が戦死した。砦の壁から吹き飛ばされた攻撃兵が堀の中にいた兵士の銃剣に着地したという、陰惨な情景も報告された。この爆発で両軍ともに混乱状態となったが、砦のアメリカ軍は兵舎によって爆風をまともに受けることを免れていた。ダグラス中尉は火を噴いた大きな木材が隣にいた兵士にぶつかったときに、危うく死ぬところだった。攻撃隊の残りは砦全体が吹き飛んだと考え、恐慌の中で撤退した。ドラモンド隊はこの攻撃の間に全滅に近い状態になった。翌日第104連隊が集合して点呼を行うと、そこに立っていた者達は攻撃に参加した者の半数以上が失われていたことに、声を出して泣いた。
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