イルディバルドとエラリーコ (540年 - 541年)
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「ゴート戦争」の記事における「イルディバルドとエラリーコ (540年 - 541年)」の解説
もしも、ベリサリウスが召還されなかったなら、彼は数カ月のうちに半島の征服を完成させていたであろう。この最良の解決策はユスティニアヌス帝の嫉妬によって頓挫させられた。そして次善の策である皇帝による和平案は彼の将軍たちの不服従によって失敗した。彼らはイタリアにおけるこの戦争がさらに20年も続いた責任を負っている。 — John Bagnell Bury、 History of the Later Roman Empire, Vol. II, Ch. XIX ベリサリウスが去った後のイタリアの大部分は東ローマの支配下にあったが、ポー川の北方にあるティチヌムとヴェローナは未だ征服されていなかった。ベリサリウスの欺瞞が明らかになると、ヴライアスの奨めにより、東ゴート族はイルディバルドを新たな王に選んだ。ユスティニアヌス帝はベリサリウスの後任となる最高司令官を任命しなかった。東ローマ軍の兵士と将軍たちは訓練もせずに略奪に耽り、新たに任命された帝国官吏たちは重税を課してすぐに信望を失った。イルディバルドはヴェネツィアとリグリアの支配を回復した。イルディバルドはトレヴィーゾで東ローマ軍を大いに破ったが、妻同士の諍いが元でイルディバルドはヴライアスを殺し、彼自身もまた541年5月に暗殺されてしまった。 オドアケルの残党のルギイ族(英語版)(イタリアに留まり、東ゴート族に味方していた)がイルディバルドの甥エラリーコを東ゴート王に推戴する。奇妙なことだが、東ゴート族はこの選出を支持した。だが、エラリーコは東ゴート族に対してユスティニアヌス帝との和平交渉を説得し、さらには秘かにイタリア全土を帝国に差し出そうと目論んでいた。彼の本意に気づいた東ゴート族は同じくイルディバルドの甥でエラリーコの従兄弟であるトーティラに鞍替えし、王位を提供した。皮肉にもトーティラ自身も帝国との交渉に入っていたが、陰謀者たちから謀議を持ちかけられると彼らに同意する。541年秋にエラリーコは殺害され、トーティラが王となった。
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