イルディバルドとエラリーコとは? わかりやすく解説

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イルディバルドとエラリーコ (540年 - 541年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/15 06:25 UTC 版)

ゴート戦争」の記事における「イルディバルドとエラリーコ (540年 - 541年)」の解説

もしも、ベリサリウス召還されなかったなら、彼は数カ月のうちに半島征服完成させていたであろう。この最良解決策ユスティニアヌス帝嫉妬によって頓挫させられた。そして次善の策である皇帝による和平案は彼の将軍たちの不服従によって失敗した。彼らはイタリアにおけるこの戦争がさらに20年続いた責任負っている。 — John Bagnell BuryHistory of the Later Roman Empire, Vol. II, Ch. XIX ベリサリウス去った後のイタリア大部分東ローマ支配下にあったが、ポー川北方にあるティチヌムとヴェローナ未だ征服されていなかった。ベリサリウス欺瞞明らかになると、ヴライアスの奨めにより、東ゴート族イルディバルド新たな王に選んだユスティニアヌス帝ベリサリウス後任となる最高司令官任命しなかった。東ローマ軍兵士将軍たちは訓練もせずに略奪耽り新たに任命され帝国官吏たちは重税課してすぐに信望失ったイルディバルドヴェネツィアリグリア支配回復したイルディバルドトレヴィーゾ東ローマ軍大い破ったが、妻同士諍いが元でイルディバルドはヴライアスを殺し、彼自身もまた541年5月暗殺されてしまった。 オドアケル残党のルギイ族(英語版)(イタリア留まり東ゴート族味方していた)がイルディバルドの甥エラリーコ東ゴート王に推戴する。奇妙なことだが、東ゴート族はこの選出支持した。だが、エラリーコ東ゴート族に対してユスティニアヌス帝との和平交渉説得しさらには秘かにイタリア全土帝国差し出そうと目論んでいた。彼の本意に気づいた東ゴート族同じくイルディバルドの甥でエラリーコ従兄弟であるトーティラ鞍替えし、王位提供した皮肉にもトーティラ自身帝国との交渉入っていたが、陰謀たちから謀議持ちかけられると彼らに同意する541年秋にエラリーコ殺害されトーティラが王となった

※この「イルディバルドとエラリーコ (540年 - 541年)」の解説は、「ゴート戦争」の解説の一部です。
「イルディバルドとエラリーコ (540年 - 541年)」を含む「ゴート戦争」の記事については、「ゴート戦争」の概要を参照ください。

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