アメリカ海軍でのキャリア
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/16 05:14 UTC 版)
「ジム・ラヴェル」の記事における「アメリカ海軍でのキャリア」の解説
ラヴェルは1954年2月1日に海軍航空士官に任命された。操縦訓練を終えると、カリフォルニア州サンフランシスコ近郊のモフェット連邦飛行場(英語版)にある第3混成飛行隊(VC-3)に配属された。1954年から1956年にかけては、艦上夜間戦闘機F2H-3バンシーを操縦した。これには、空母「シャングリラ」での西太平洋での任務も含まれていた。シャングリラは、アメリカ海軍の空母としては2番目のアングルド・デッキを持つ空母として改装されていた。 陸上勤務に戻ると、艦上ジェット戦闘機F3Hデーモンのパイロット移行訓練を担当するようになった。1958年1月、メリーランド州パタクセント・リバー海軍航空基地にある海軍テストパイロット学校で6か月間のテストパイロット訓練コースに参加した。同級生にはピート・コンラッドやウォルター・シラーがいた。ラヴェルはこのクラスを首席で卒業した。 同年末、マーキュリー計画の宇宙飛行士候補としてアメリカ軍のテストパイロットの中から選ばれた110人の中に、ラヴェル、コンラッド、シラーの3人がいた。シラーはマーキュリー・セブンの1人となったが、ラヴェルとコンラッドは健康上の理由で選抜から漏れた。ラヴェルが落選したのは、血液中のビリルビンの値が一時的に高かったためである。 1961年、南カリフォルニア大学(USC)の航空安全学校を修了した。 パタクセント・リバー海軍航空基地では、電子機器の試験(後に武器の試験)に配属された。ラヴェルに割り当てられたコールサインは「シェイキー」(Shaky)で、これはコンラッドが名付けたものだった。 ラヴェルはF4Hのプログラム・マネージャーになり、ジョン・ヤングがその下で働いていた。1961年、第101戦闘飛行隊(VF-101)A分遣隊(デタッチメント・アルファ)の飛行教官および安全技術担当者としての任務を受けた。
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