アメリカ合衆国、再びフランス、メキシコ
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「ヴォルフガング・パーレン」の記事における「アメリカ合衆国、再びフランス、メキシコ」の解説
1948年、ルシータとともにカリフォルニア州マリン郡ミルバレー(英語版)に移住。ここで、ゴードン・オンスロー・フォード、リー・マリカン(英語版)とともに「DYN」の活動を受け継ぐ新グループ「ダイナトン (Dynaton)」を結成し、同年および1950年にサンフランシスコでダイナトン展を開催した。これは、再び欧州のシュルレアリスムの影響を受けながら、宇宙と自然の諸要素を取り入れ、「無意識の精神の超越的な力」を表現しようとする試みである。 だが、パーレンは、メキシコに戻ってブルトンとの関係を回復したいと願っていた。1951年、ルシータと離婚してメキシコに向かい、渡仏。パリに3年間滞在した。滞在中はシュルレアリスムの画家カート・セリグマン(フランス語版)のもとに身を寄せ、ブルトンと和解すると、夏の間は彼がサン=シルク=ラポピー(フランス語版)(オクシタニー地域圏ロット県)に購入した古い宿屋に滞在し、再びブルトンを中心とするシュルレアリスムの活動に参加した。ブルトンが創刊した『媒体 ― シュルレアリスム・コミュニカシオン』誌第2号(1954年刊行)ではパーレン特集が組まれ、ブルトンのほか、メキシコで交友を深めたバンジャマン・ペレ、ジュリアン・グラックらが寄稿している。 1954年にメキシコに戻ったパーレンは双極性障害など健康上の問題を抱えていたため、ゴードン・オンスロー・フォードとエヴァ・スルザーの支援を得て、モレロス州のテポストランで古い家を購入し、以後、亡くなるまでここに暮らし、フランスの作家アンドレ・ピエール・ド・マンディアルグやメキシコの詩人オクタビオ・パスを招いた。この時期、パーレンは絵画だけでなく、戯曲や短編小説も執筆し、体調が悪いにも関わらず、精力的な活動を行った。1959年9月24日の夜、気分がすぐれないときにしばしば滞在していた、テポストランの南西約100キロのところにあるタスコのホテルを出て、丘に向かった。翌日、遺体で発見された。拳銃自殺であった。享年54歳。
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