アポロ計画の方式の選択
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/28 00:58 UTC 版)
「月軌道ランデブー」の記事における「アポロ計画の方式の選択」の解説
月軌道ランデブーは1919年にウクライナとソビエト連邦の技術者であるユーリイ・コンドラチュクによって最も効率的な有人月着陸の方法として提案された。 1961年にアポロの月着陸計画が始まったとき、3人の宇宙飛行士の乗ったアポロ司令・機械船が月に降下し、再び離陸して地球に戻ってくることに使われると想定されていた。着陸のためのギア付きの足がついている大きなロケットのステージで着陸しなければならないとされ、結果として4万5千キログラムを超えるほどのとても巨大な宇宙船を月に送りこむ必要があった。 もしこの宇宙船の運搬を1基の打ち上げロケットで賄うとしたら、ノヴァロケットクラスのロケットが必要となる。これの代案として、2つもしくはそれより多くのサターンロケットクラスのロケットがそれぞれ宇宙船の一部を打ち上げ、月に向かう前に地球周回軌道上で集合し組み立てる地球軌道ランデブーがあった。これは別個に地球離脱ステージを打ち上げなければならない可能性、または軌道上で燃料の入っていないロケットのステージに燃料を再注入する必要があった。 トム・ドランは、代案として月軌道ランデブーを提案していたが、これはスペース・タスク・グループのジム・チェンバレンとオーウェン・メイナードが、1960年代初頭においてアポロ計画として実現可能であると考え、研究していたものであった。この方式では1つのサターンVがアポロ司令・機械船をそれよりも小さいアポロ月着陸船とともに発射できた。一体となった宇宙船が月軌道に到達したとき、3人の宇宙飛行士のうち2人は月着陸船に乗り込み、分離して着陸船のみが月の表面に降りる。その間残りの1人は、司令・機械船にとどまり、月を巡りながら待つ。月面の探査が終了すると、降下した2人の宇宙飛行士は月着陸船の上昇ステージを使って月軌道上まで上昇し、司令・機械船に再びドッキングし、月着陸船を捨て、司令・機械船によって地球に戻ってくる。この方法はラングレー研究所の技術者であり、月軌道ランデブーを発展させるためのチームを率いていたジョン・フーボルトが売り込んだため、NASAの副長官であるロバート・シーマンズが関心をもっていた。
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