這龍図小柄笄二所
大森英昌は町彫金工の祖とも評されている横谷宗珉の高弟で、叔父の重光および宗珉に学んだ後の享保年間に独立して大森家を興し、師家と共に江戸金工界の発展の下地を作った名工。はじめ与市と称し、後に四郎右衛門を襲い、英昌の工銘に花押を切り添えるを掟とし、幹支間と号する。横谷流の作風を踏まえ、獅子牡丹や龍の図の精密で豪華な高彫表現を得意としながらも、さらに独自の表現を模索し、その独創性を大森二代の英秀に継がせて大森波と呼ばれる複雑で極めて立体的な高彫表現の波の図柄を完成させている。大森家は柳川家・菊岡家・石黒家などの横谷同門中最も格高い流派であり、また、英昌は多くの門弟も養成し、明和九年に六十八歳で没している。掲載の二所物は、阿吽の相を示す二態の這龍を小柄と笄に分け、その呼応し合う様子を絹目のように微細で整然と蒔かれた赤鋼魚子地に肉高く彫り出し、色合い神々しい金の色絵を施した、精密でしかも活力漲る作。図柄の構成は後藤家の伝統的な這龍を基本に置きながらも、後藤家の文様的な表現による龍とは作風も各部分の彫刻手法も明らかに異なり、全てにわたって実体的で手足や胴体の様子は躍動感に満ち溢れている。手足・角・額に施ざれた点刻は大小の変化が付けられて表情を豊かにし、深く窪んだ眼窩の奥には赤銅にて目玉が点象嵌されており、これが光を強く反射して龍に生気をもたらしている。 |
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