つくる会会長就任…藤岡信勝らとの決別
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実業界から退いた後、東大の同級生で当時、新しい歴史教科書をつくる会の会長だった西尾幹二から「財務を見てくれ」と頼まれ、1999年(平成11年)3月に理事に就任、一時は副会長を務めた。日露戦争について研究し、著書『くたばれ!リストラ―日露戦争に学ぶ経営・人生』を出版したり、学会に呼ばれるなどした。 明石への隠居を決めていた2006年(平成18年)2月、つくる会の内紛で八木秀次が会長を解任されたあおりで、会長に担ぎ出された。しかし西尾や藤岡が八木を追及する動きを強めたことから見切りをつけ、2006年(平成18年)4月、八木らとともに辞任した。辞任のあいさつ文で「私は、日本では日本人、アメリカではアメリカ人、ドイツではドイツ人をマネージして、40年間、ビジネスを展開して参りました。だが、『つくる会』の理事諸侯の一部に関してはマネージ不能であったことを遺憾とします。彼等は、ルールを守る、ボスの方針に従う、などの国際基準を全く無視しますので、マネージできないし、彼等との仕事は、賽の河原で石を積む子供たちのような空しさの繰り返しにしかならないのです」などと藤岡らを批判した。 内紛の内幕について「狂乱の春―「つくる会」会長職2ヶ月」という文章を発表。藤岡について「ガリレオ・ガリレイ以前の天動説論者、自分が宇宙の中心で、その周りを万物が回ると思い込んでいる。自分以外のルールなど一切認めず、すべては自分のため、と考え、それを邪魔しそうな者に対しては全身全霊で呪いを吹っかけて、抹消し去ろうとする」と指摘。 現在、八木らが設立した日本教育再生機構の代表委員を務めている。
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