その他スポーツの普及と高校野球・夏の甲子園大会の復活
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「ポール・ラッシュ」の記事における「その他スポーツの普及と高校野球・夏の甲子園大会の復活」の解説
ラッシュはアメリカンフットボール以外のスポーツの育成にも努めたが、アメリカンフットボールの普及に先立って、大学野球の振興に関わっていた。特にアメリカでの聖路加国際病院建設募金から帰国した1931年には、六大学野球リーグを立教大学が初制覇したことから、1932年4月、立教大学野球部の米国遠征を大学体育主事のジョージ・マーシャル教授と企画した。野球部の選手たちは、米国各地を回り、アイビーリーグの優勝校であるイェール大学とも対戦し、8-1で勝利するなどの戦績も収めた。遠征のハイライトであるニューヨークでは、ヤンキースの試合を観戦した後、ベーブ・ルースやルー・ゲーリックらも出席して歓迎会が開催され、スポーツを通じ日本とアメリカの友好関係をさらに深めた。各チームとの試合の調整を含め、これらもラッシュが遠征の2か月前から米国入りし、事前に段取りをつけたものであった。 1933年には、立教大学ア式蹴球部(現・サッカー部)の2代目部長として、関東大学サッカーリーグ2部で全勝優勝させ、1部昇格へと導いた。 またラッシュは、日本に早い時期にカーリングを紹介したと言われている。 戦後まもなく、GHQの将校として再来日したラッシュは、日本の復興には日本の若者たちに夢や希望と生きる活力を与えるスポーツを復活させることが喫緊課題であるとし、真っ先に野球大会の復活に尽力した。朝日新聞社に働きかけて、夏の甲子園大会である全国高等学校野球選手権大会(当時・全国中等学校優勝野球大会)を戦争が終わった1周年である1946年8月15日に復活開催させた。大会主催の朝日新聞社は、ラッシュを戦後初の全国大会開会式の主賓として招待し、野球復活の最大の恩人に敬意を払った。この歴史的なスポーツの祭典の復活にあたって、ラッシュは「本大会を機に再び野球は日本の若者の血をわかすであろう。オメデトウ、Do your best!」と翌日の朝日新聞にも記録される名演説を行い、出場全チームに白球をプレゼントしたのである。
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