崇峻天皇とは? わかりやすく解説

崇峻天皇

欽明天皇第十二子
母は蘇我稲目の娘小姉君
578年用明天皇疱瘡崩御するにわかに戦乱機運高まった
蘇我馬子物部守屋との対立は、先帝用明天皇のときにすでにはじまっていた。
穴穂部皇子三輪君逆斬殺により決定的となった
物部守屋皇位を狙う穴穂部皇子押し立てて狩を名目に兵を集めた
この様子をみた蘇我馬子炊屋姫尊を奉じて佐伯連丹経手らに穴穂部皇子宅部皇子殺害させた。
これにより蘇我馬子物部守屋との直接抗争となり、蘇我馬子陣営は、炊屋姫尊(後の推古天皇)・泊瀬部皇子(後の崇峻天皇)・竹田皇子厩戸皇子(聖徳太子)らを味方とし、一方物部守屋陣営味方がおらず孤立したが、物部の名が示すように武力にかけては当代一流右に出るものはないほど優れていた。
守屋一族と奴を率いて本拠の渋河に篭り応戦した
激戦数度に及び、次第守屋劣勢動かし難いものとなった
そしてさしもの歴戦の勇者天命尽きて衣摺(東大阪市)で迹見首赤檮(とみのおびといちい)に射殺された。
この後587年泊瀬部皇子即位して崇峻天皇となった
しかし、政冶の実権馬子にあり次第崇峻馬子反目するようになった
先帝遺言を果たすため、崇峻天皇は任那再興のため新羅を討つべく、筑紫向けて軍を発向するが、その留守狙って馬子は、東漢直駒(やまとのあやのあたいこま)を使って崇峻天皇を暗殺(592年)した。
この後、崇峻天皇に対してモガリ」の儀礼を行うこともなく、ただちに倉岡の陵に葬られたという。
蘇我馬子残忍な性格がよく出ている場面だ。
しかし、読者諸兄安心したまえ、因果は巡るというではないか
蘇我氏入鹿の代になり中大兄皇子中臣鎌足首を刎ねられることになる。





崇峻天皇と同じ種類の言葉


固有名詞の分類

このページでは「歴代天皇事典」から崇峻天皇を検索した結果を表示しています。
Weblioに収録されているすべての辞書から崇峻天皇を検索する場合は、下記のリンクをクリックしてください。
 全ての辞書から崇峻天皇 を検索

英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「崇峻天皇」の関連用語

崇峻天皇のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



崇峻天皇のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
歴史浪漫歴史浪漫
Copyright(C)2025.1.1 ~@Hinet Suzuki Minoru  All Rights Reserved Since-1998.11.21

©2025 GRAS Group, Inc.RSS