『ハリマンの極東計画』
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「桂・ハリマン協定」の記事における「『ハリマンの極東計画』」の解説
ハリマン提案から小村寿太郎によるハリマン仮協定撤廃までの経緯は、外務省『小村外交史』によれば「言わば闇から闇に葬られたもの」であり、当事者以外にはほとんど知られていなかった。これが広く知られるようになったのはジャーナリストのジョージ・ケナン(外交官として有名なジョージ・ケナンの叔父)によって米亜協会の機関誌『亜細亜』1917年5月号に掲載され、さらに同年、カントリーライフ社から『ハリマンの極東計画(E. H. Harriman's Far Eastern Plans.)』という書籍が出版されて以降のことである。 E・H・ハリマンは、アメリカが将来的に太平洋において通商上の覇権を掌握することを求め、太平洋、日本、満洲、シベリア、ヨーロッパ、大西洋を連結する世界一周の交通ネットワークを確立してユーラシアの商業権をアメリカが一手に握る遠大な計画を立てた。そして、その手始めに南満洲鉄道の経営に参画し、さらには東清鉄道やシベリア鉄道の買収も考慮する算段を立てたのである。 ハリマンは、桂との仮協定が廃案になってからも自身の計画を諦めなかった。1906年春にはクーン・ローブ商会のジェイコブ・シフが再来日してハリマン提案の復活を運動した。さらに、シベリア鉄道および東清鉄道の買収についてもロシア政府との交渉を続けたが、1909年9月、ハリマンとも縁の深かったウィラード・ディッカーマン・ストレイト(英語版)が錦璦鉄道(錦州・璦琿(現、黒河市)間鉄道)敷設権を獲得する直前に急逝した。
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