『サムシング・クール』以後
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「ジューン・クリスティ」の記事における「『サムシング・クール』以後」の解説
『サムシング・クール』以来、ジューンは1950年代を代表する白人女性ソロシンガーの一人として人気を博した。キャピトルでは他にも『Misty Miss Christy』(1956年録音)、『June's Got Rhythm』(1957年録音)、『Ballad For Night People』(1960年録音)など、多くの優れたアルバムを制作している。夫クーパーの編曲によるスモール・コンボとの共演作や、ギタリストのアル・ヴィオラとの共演作もあるが、ピート・ルゴロ・オーケストラ共演作は特に評価が高く、それはキャピトル時代の合計18作のアルバムのうち、実に9作がルゴロの編曲・指揮によるものだったことでも裏付けられている。 キャピトルでのアルバムはおおむね商業的成功を収めたが、唯一不振だったのは1955年録音の『Duet』であった。これは旧知のスタン・ケントンのピアノ伴奏による異色の作品である。 ジューンのアルバムでは、写真・イラストの違いを問わず、爽やかな微笑を浮かべた金髪童顔のポートレートがしばしば用いられた。だがその清楚な容姿に似合わぬ酒豪であり、男性相手に延々と飲んでも決して酔い潰れなかったとされ、ケントン楽団時代にジューンと呑み比べをして潰れなかった同僚はサックス奏者のアート・ペッパー一人だった、という逸話もある。そのため、1950年代後期以降はアルコール中毒に陥り、歌手の命である喉を傷め、歌唱力を大きく損なうことになった。 1960年代半ばに第一線から退き、引退状態に入った。のち1977年に日本のレコード会社の要請でアルバムを録音したが、歌唱にはすでに往年の精彩はなかった。 長年の飲酒に起因する腎臓病により、1990年6月21日(奇しくも6月=Juneであった)にカリフォルニア州シャーマン・オークスで死去した。
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