「顕長」在銘壺の発見
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/03/25 17:44 UTC 版)
所在する篠井山(標高1,394m)は身延山地の山の一つ。県南部の富士川右岸に位置し、甲駿国境に近い。古代の律令制下では巨摩郡に属し、東に富士山を望み。農神としての信仰を受けている山岳信仰の山。山頂には三社の四ノ位明神が祀られ山麓の成島、楮根、御堂の3集落によって祭祀が行われていた。『甲斐国志』によれば、平安朝の歌人である凡河内躬恒(おおしこうちのみつね)が登ったといわれ、中央社の下には埋納した宝物があるという伝承があったという。 1891年(明治24年)に社の下が盗掘され出土遺物は行方不明であったが、1984年(昭和59年)に富沢町徳間で「三河守藤原朝臣顕長」在銘の壺が発見された。これは愛知県田原市の大アラコ古窯で生産された渥美窯の短頸壺で、器高54.5cm、重量22.5kg。肩部に顕長の名を含む14行64文字の銘文が箆彫りされている。同様の銘文を持つ壺が大アラコ古窯から出土した愛知県陶磁美術館所蔵資料や静岡県三島市の三ツ谷新田、神奈川県綾瀬市の宮久保遺跡から出土した破片など各地に存在することから、この短頸壺は経塚の経筒外容器(きょうづつ がいようき)であると判明した。壺は生産地から海上輸送され、富士川を遡上して搬入されたと考えられている。 また、2000年(平成12年)には富沢地区の民話採集を行っていた加藤為夫が楮根の正行寺において12世紀の渥美窯と13世紀の常滑甕の破片や経塚遺物と考えられている銅製品片、除湿剤である木炭片などの新資料を発見した。箱書によれば明治期に経塚が掘り起こされた際に、近在住民により採集され寺に納められたという。 これらの資料は1985年に山梨県立考古博物館の企画展『山梨の中世陶磁』において一般に紹介された。2010年(平成22年)には短頸壺が山梨県立博物館に寄託される。
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