「財界四天王」へ
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1951年(昭和26年)、永野は、経団連への対抗意識が旺盛だった藤山愛一郎から日本商工会議所入りを口説かれる。永野は経団連に加入するつもりであったため、一旦は固辞したが、最終的に小林中に説かれて同会議所に入り、東京商工会議所副会頭に就任した。 1952年(昭和27年)全日本空輸設立に関与し、1978年(昭和53年)の日本貨物航空設立にも関わる(詳細は後述)。1955年(昭和30年)日本生産性本部発足に伴い、副会長に就任。同年、国家公安委員会委員。同年9月、共産勢力への危惧から、桜田武、植村甲午郎らとともに、「共同調査会」という団体を秘密裏に設立し、広範な反共活動を行う(詳細は桜田武を参照)。1956年(昭和31年)産業計画会議委員。1958年(昭和33年)東海製鐵(現・新日鐵住金名古屋製鐵所)建設に尽力(詳細は後述)。 1959年(昭和34年)、東京商工会議所会頭と日本商工会議所会頭に就任 し、死の直前までその任にあった。現在の経済三団体(かつての経済五団体)は横の繋がりに乏しかったが、永野の日商会頭就任以降、積極的な交流を図るようになった。今日続く「経済三団体」の新年合同賀詞交歓会は、永野の提唱で始まったものである。 1969年(昭和44年)富士製鉄は粗鋼年産能力1600万トン体制を達成し、粗鋼生産世界第4位の製鉄会社に成長を遂げた。このころ、桜田武、小林中、水野成夫とともに「財界四天王」と呼ばれ、政局にも大きな影響力を持つようになった。池田勇人の総理就任にも尽力した。1965年(昭和40年)、日本鉄鋼連盟名誉会長。
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