「負け組」への攻撃
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/17 08:44 UTC 版)
戦時中、異常な高値を呼んだハッカと生糸はアメリカを助ける軍需品であるとのデマを飛ばした。ハッカは航空機のエンジンの冷却材であり、生糸はパラシュートの材料にされると吹聴した。大西洋におけるUボートの出現でこれらの物資の国際相場が暴騰し、日系移民の中には巨額の利益を得るものもいた。これを利敵産業とみなし、退役日本軍人、あるいは軍籍を詐称する人々を中心にこれを生産する日本人は国賊というデマを飛ばし、ハッカ畑の焼き討ちや養蚕小屋の破壊活動などの犯罪を犯した。1945年の終戦後には祖国の敗戦を信じない者が8割から9割もいて、各地に「勝ち組」団体が発生。敗戦を唱える『認識派』を攻撃し、23人を暗殺し、147人の負傷者を出すに至った。事態を重く見たブラジル政治治安警察(DOPS、ブラジルの特高)は約3万件の嫌疑をかけ、臣道連盟幹部を次々に検挙した。最終的に381人の人々に30年の刑を科し、アンシエッタ島の刑務所に収監した。しかし大部分は規則をよく守る模範囚であったため、数年をまたずして釈放されている。そのたびに再組織化がはかられたが、1946年末ごろまでには中央の組織は壊滅した。この当時には、多くの日本人は感情面はともかく、事実を知るようになっていた。
※この「「負け組」への攻撃」の解説は、「臣道連盟」の解説の一部です。
「「負け組」への攻撃」を含む「臣道連盟」の記事については、「臣道連盟」の概要を参照ください。
- 「負け組」への攻撃のページへのリンク