「浅間丸事件」
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/13 07:39 UTC 版)
詳細は「浅間丸事件」を参照 1939年9月にヨーロッパで第二次世界大戦が勃発し、9月3日に英仏がドイツに宣戦を布告した。同年9月4日にはイギリス客船がドイツ潜水艦に無警告で撃沈され多くの一般乗客が犠牲になるなど開戦当初より大西洋では熾烈な戦闘が繰り広げられ、イギリス沿岸では11月に照国丸も機雷に触れ沈没した。しかし、日本とアメリカは1941年12月まで第二次大戦には参加せず、また太平洋でドイツ海軍や蒋介石の中国軍による戦闘は発生しなかったことから、太平洋を挟んだ日米間では商船会社による定期運航が戦争当事国に関係する物資や人員の輸送は制約をもうけながらも、比較的平穏に行われていた。 だが1939年末にサンフランシスコを出帆しホノルル経由で横浜に向けて航行中、イギリス海軍省と日本郵船が結んでいた紳士協定を日本大使館の強い要請により船長が守らずに乗船させた、ドイツ客船コロンブスの乗員を主としたドイツ人乗客51名を加えたため、1940年1月21日に千葉県房総半島沖の公海上でイギリス海軍の軽巡洋艦「リヴァプール」により臨検され、当時日本と日独防共協定による同盟関係を結んでいたドイツ人乗客のうち、兵役につく事ができる年齢の21名が戦時捕虜の名目で連れ去られるという事件がおき、当時関係が懸念されていた日本とイギリスの間において国際問題に発展した。日本の英国に対する交渉の結果、同様にドイツ人船客をのせて出帆した日本郵船にたいして同様の臨検を行わないことと、9名のドイツ人の返還により一応の決着をみた。
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