臨検と拉致
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/03 02:56 UTC 版)
英独開戦後、イギリス海軍省と日本各商船会社の間では戦時禁制となる人や物の輸送中止の紳士協定が結ばれていたが、日本郵船の「浅間丸」は日本大使館の強い要請により、前年12月に大西洋で沈没したドイツ客船コロンブス (SS Columbus) の船員など51名を乗客に加え、1939年12月にサンフランシスコよりホノルルを経由して横浜港に向けて出航した。翌1940年(昭和15年)1月21日、千葉県房総半島沖の公海上(東経140度31分、北緯34度34分)でイギリス中国艦隊所属の軽巡洋艦「リヴァプール」(HMS Liverpool, C11) より空砲で停船を命じられ臨検を強制された。 臨検は士官3名と武装水兵9名により行われた。船長は当初、イギリス領海で「榛名丸」にドイツ人船客を乗せて通行できた1938年9月の先例をあげて拒否したが、イギリス軍の戦時国際法による強硬な乗客の身元調査の要求により、ドイツ人乗客51名のみが1等サロンに集合させられ、イギリス軍が所持する名簿と照会の上「国際公法上の権利」として21名の連行を船長に通告し、戦時禁制人と看做された少年も含む男性乗客とヘルマン・グロース船長などを「戦時捕虜」の名目で浅間丸船上より身柄を拘束し連行した。
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