「宣戦布告」への過程
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/03 06:48 UTC 版)
義和団の源流は何かという問題と並んでよく論じられるのが、清朝の列強への「宣戦布告」である。この決定は義和団及び列強連合軍に対しどう対処するかについて、4度御前会議が開かれた末、決定された。この火を見るより明らかな無謀な決定は何故出されたのだろうか。激昂に駆られた感情的な側面があるのは確かであるが、それのみを重視して「宣戦布告」=狂気の選択といったような不可知論的説明は歴史学では採らない。「宣戦布告」のいくつか理由について以下に列挙する。 大沽砲台問題 ― 最も決定的だったのは大沽砲台問題といわれる。大沽砲台とは海河河口に備えられており、北京や天津へと遡航する艦船への防御の要となる砲台であった。それが5月20日の時点で列強への引渡しを求められ、なおかつ清朝側が拒否後攻め落とされた。交戦状態でもないにもかかわらず、また義和団に占拠されていたのでもない、にもかかわらず、列強がこの挙に出たことが、清廷内の排外主戦派を勢いづかせ、西太后の決心を促した。加えて、従前の仇教事件のような列強の司法への介入、山東巡撫の更迭要求等のいくつもの列強の圧力、信頼できない臣家の証言、すなわち「累朝の積憤」(積もり積もった怒り。剛毅の言)が次第に清朝を「宣戦布告」へと追いやったと言える。 「照会」問題 ― この「照会」とは列強が西太后に引退を求めたとされる文書である。西太后はこれを見て激昂し宣戦を決めたという。しかし実はこの「照会」は偽物であった。清朝主戦派の誰か(端郡王載漪(さいい)一派と目されている)が捏造したものと考えられているが、それは煮え切らない態度を示す西太后の背中を押すためだったと考えられている。 清朝内の権力争い ― 清廷内には戊戌変法を支持した光緒帝を廃位しようとする計画が進められていた。その障害となったのが、列強と李鴻章や一部の親王であり、それらを排除するために義和団を利用したという。つまり列強に対しては義和団を充てる一方で、列強に妥協的だという理由で李鴻章らを媚外として批判したのである。 6月21日の宣戦布告 に先だって、最高権力者であった西太后は「中国の積弱はすでに極まり。恃むところはただ人心のみ」と述べたといわれる。
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