「二代・琴錦」襲名
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そうした努力が実を結び始め、初土俵から2年ほどで幕下へ昇進した。その一方で身体が小さく、新弟子時代は周囲に名前を覚えてもらえず、「キミ」「ぼく」呼ばわりされていたと言い、幕下昇進後にようやく「マツ」という渾名を付けられつつも、フルネームはそれでも覚えてもらえなかったという。この頃から琴ヶ梅と共に井筒部屋へ出稽古するようになり、逆鉾から「小さく中に入り、鳥が羽ばたくように大きく広がりなさい。差す時には手の甲から入ること。背は伸ばせないから肩幅を広げなさい。そうすると相手からは大きく見えるから」と指導を受けた。 西幕下5枚目で迎えた1987年(昭和62年)9月場所、11代・佐渡ヶ嶽の四股名である「琴錦」へ改名した。当時、鏡山部屋の序ノ口力士に同音の「虎勝錦」が在籍していたために本来は改名できないはずだったが、佐渡ヶ嶽より鏡山へ懇請し格違いで譲ってもらい、改名を果たしている。実は琴錦の名は松澤自身が入門する直前に友人と考えていた四股名と全く同一で、11代親方と相撲の型(容貌、性格も)が似ていたと言われ、11代親方夫人の許しを得たものだった。しかし松澤本人は、「琴錦」の名が11代親方の現役時代の四股名だったとは全く知らず、入門後に聞いて大変驚いた。その場所は2勝5敗と負け越し、関取昇進は一度お預けとなったが、同年11月場所、1988年(昭和63年)1月場所と連続して5勝2敗の好成績を挙げ、同年3月場所に十両昇進を果たした。この場所では力の差を見せつけられて4勝11敗と大きく負け越し、一場所で幕下に陥落したが、同年9月場所へ再昇進を果たすとその後は順調に番付を上げていき、1989年(平成元年)5月場所に新入幕を果たした。小柄な身体から繰り出される速攻の突き、押しの取り口は「F1相撲」と評され、「風のエール」という応援歌も作られた。また、同時期は貴花田・若花田のいわゆる「若貴」ブームだったが、どちらにも強かったことから「若貴キラー」とも呼ばれていた。
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