「三十三間」の由来と構造
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 20:26 UTC 版)
「三十三間堂」の記事における「「三十三間」の由来と構造」の解説
三十三間堂の名称は、本堂が間面記法で「三十三間四面」となることに由来する。これは桁行三十三間の周囲四面に一間の庇(廂)を巡らせたという意味である。つまり柱間が33あるのは本堂の内陣(母屋・身舎)であり、建物外部から見える柱間は35ある。正面に7間の向拝があるが、この区域は慶安2年(1649年)から慶安4年(1651年)頃の増築である。 ここでいう「間」(けん)は長さの単位ではなく、社寺建築の柱間の数を表す建築用語である。三十三間堂の柱間寸法は一定ではなくその柱間も今日柱間として使われる京間・中京間・田舎間のどれにも該当しない。しばしば「三十三間堂の1間(柱間)は今日の2間(12尺)に相当するから、堂の全長は33×2×1.818で約120mとなる」、と説明されることがあるが、これは柱間の数についても、柱間の長さについても誤りである(ただし実際の外縁小口間の長さ約121mとほとんど一致する)。 そもそも「33」は観音菩薩に縁のある数字で、『法華経』等に観音菩薩が33種の姿に変じて衆生を救うと説かれることによる。俗に「三十三間堂の仏の数は三万三千三十三体」というのは、本尊と脇仏の一千一体がそれぞれ33に化身するからである。 また、2016年(平成28年)に京都市埋蔵文化財研究所の調査により、地盤は砂と粘土を層状に積んで構成されていることが明らかになった。これは積層ゴムが建物の揺れを吸収する「免震」のメカニズムと共通している。
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