「バランシンのミューズ」から妻の座へ
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「タナキル・ルクレア」の記事における「「バランシンのミューズ」から妻の座へ」の解説
1946年にルクレアはソリストとしてバレエ・ソサエティに入団した。同年11月のバレエ・ソサエティ第1回公演で新作『フォー・テンペラメント(4つの気質)』(パウル・ヒンデミット作曲)で「コレリック」(胆汁質もしくは癇癪)のパートを踊った。『フォー・テンペラメント』はバランシンの傑作として評価され、彼女の踊る「コレリック」も好評を得た。1948年には、ニューヨーク・シティ・バレエ団(NYCB、バレエ・ソサエティから改称)のプリンシパルダンサーに昇格した。 バランシンは人目を惹く美貌と強靭で長くしなやかな手足に加えて優れた舞踊技巧と音楽性、そして軽快で知的な雰囲気を持つルクレアに触発されて、およそ10年ほどの間に25作以上の作品を振り付けた。その中には『ブーレ・ファンタスク』(1949年)のような陽気で洗練された作品や、『ラ・ヴァルス』(1951年)で踊った「死」に魅せられるミステリアスな役柄などがあった。ルクレアは多彩なレパートリーを自在に踊りこなしてバランシンの新たな「ミューズ」となった。 バランシンはダンサーとしてだけではなく、1人の女性としてもルクレアに惹かれていった。振付家としてのバランシンは男女両方を対象として作品を創作していたが、マリウス・プティパと同様に主な創作の対象は女性であった。そしてバランシンにとって女性ダンサーは芸術的霊感を与えてくれる「ミューズ」であった。ただし、私生活での妻と「ミューズ」は別の存在とする振付家が多数を占める中で、バランシンにとって両者は不可分な存在であった。 バランシンは、1946年に4番目の妻マリア・トールチーフと結婚していた。トールチーフはバランシンより21歳年下で、『シンフォニー・イン・C』(新版、1948年)、『オルフェウス』(1948年)、『シルヴィア・パ・ド・ドゥ』(1950年)などで成功を収めていたバレリーナであった。ただし、トールチーフは普通の結婚生活を望んで子供をもうけたいと願っていたものの、バランシンにその気は全くなかった。彼がトールチーフに求めていたのは平凡な妻ではなく「ミューズ」であった。 バランシンとトールチーフの結婚生活は、1951年に破たんした(1950年または1952年という異説あり)。ただし憎みあっての離婚ではなく、その後も友好関係を保ち、一緒に仕事にも取り組んでいた。トールチーフは裁判所にバランシンとの「結婚無効」の申し立てを行っていた。申し立てが受理された当日、トールチーフは裁判所から劇場に向かい、バランシンとともに『スコッチ・シンフォニー』(1952年)のリハーサルを行っていた。 トールチーフとの離婚と前後して、バランシンはルクレアとの交際を密かに始めていた。1952年のクリスマスにバランシンはルクレアにプロポーズし、同年の大晦日に結婚した。バランシンは48歳、ルクレアは23歳であった。2人の結婚について、SABのクラスメートが嫉妬の感情などみじんもない口調で「彼女は、私たちみんなの代表としてバランシンと結婚したのよねえ」と評したという話が伝わっている。
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