「ナチスの店」
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/02/29 16:58 UTC 版)
ドイツの病院での経験を経て、ジノヴチはヒトラーとよく似た自分の風貌を活かしていく方法を考えた。彼はより「ヒトラーらしく」なる為、ちょび髭を短く整え、髪は黒く染めてヒトラーのヘアスタイルを真似た。紛争終結後、ジノヴチは故郷ミトロヴィッツァに戻り、バー・ヒット・アンド・ジェット(Bar Hit and Jet)という名前の酒場を開業した。この店は地元のコソボ系アルバニア人から愛情を込めて「ヒトラーのピザ屋」(Pizzeria Hitleri)と呼ばれた。しかし、この店は1999年6月から駐留を開始していた国連平和維持軍将兵の間で論争を引き起こすことになる。例えば、あるフランス人のNATO兵はジノヴチの店の入り口に飾られていたハーケンクロイツを「非常に不愉快」だとして降ろさせた。別のフランス人士官は報道関係者からのインタビューの中でジノヴチの店について触れ、ジノヴチの行動にうんざりしていることと、部下にはジノヴチの店を訪れないように厳命したと語った。この士官によれば、ジノヴチはナチスのイメージを模して、店内にKLAの制服を着用した自らの肖像写真を飾っていたという。ジノヴチ自身は「どうしてヒトラーの仮装を楽しんでいるのか」と尋ねられた際、「アルバニア人に流血を強いた勢力と対峙する人々は、皆が私の友人だ」と語った。これは第二次世界大戦中にナチス・ドイツを始めとする枢軸国がユーゴスラビアを侵攻した際、アルバニアによるセルビア領コソボ侵攻をドイツ側が黙認したことへの言及であった。彼はヒトラーが女や子供まで殺させたことについては「やり過ぎだった」と認めつつ、「我々の血を欲する者共を排除する為には良いアイデアだ」と述べている。 数年後、ジノヴチの店はKLA自体の印象にも悪影響を及ぼしうると判断され、現地のKLA指揮官の命令によって廃業した。店を失ったジノヴチは戦後の混乱の中で貧困に苦しみ、KLAの軍人年金と西ヨーロッパに暮らす親戚からの援助に頼って生活することになった。それからしばらくして再び経済状況が安定し始めると、彼はイェホナ(Jehona)という名前のレストランを開業した。この店名は彼の最初の娘の名に因んだものであった。この店のレシートの右上には黒いハーケンクロイツが印刷されていた。数年後には何らかの理由によって廃業している。
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