髷物とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > デジタル大辞泉 >  髷物の意味・解説 

まげ‐もの【×髷物】

読み方:まげもの

髷を結っていた時代取材した小説演劇・映画など。時代物ちょんまげもの


時代劇

( 髷物 から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/20 16:46 UTC 版)

時代劇(じだいげき)は、日本の演劇映画テレビドラマなどで現代劇と大別されるジャンルとして、主に明治維新以前の時代の日本を舞台とした作品の総称である[1][2]


注釈

  1. ^ 「明治維新以前の江戸時代、あるいはそれ以前の時代」といっても、神代卑弥呼を扱った弥生時代など、遠い時代を遡ったテーマであると、衣装・大道具・小道具の様式やストーリーにおいて、一般的な「時代劇」の様式とは大きく異なる内容が含まれてくる。しかしCS放送の時代劇専門チャンネルではこうした時代を扱った作品も放送している。
  2. ^ 英字新聞のテレビ欄における表示に基づく。
  3. ^ 英語圏では、自国の歴史劇を period piece または period drama と呼ばれ、日本の時代劇は「Samurai drama」と呼んで区別している。
  4. ^ 伊達騒動の原田甲斐の描き方は、歌舞伎の世界では逆臣で戦前の映画も逆臣の悪役だが、戦後の『樅の木は残った』では正反対に忠臣として主役となった。また忠臣蔵や赤穂浪士は史実としての元禄赤穂事件とは「刃傷」「討ち入り」は同じでも、それ以外のエピソードは後世の創作であり、肝心の四十七士の個人の名前さえも「徳利の別れ」の「赤垣源蔵」は実在しているのは「赤埴源蔵」の名である。
  5. ^ この活動写真は当時の歌舞伎座の裏の野天で撮影され、の歌舞伎興行で團十郎休演に際し上映され、團十郎と菊五郎が死去した翌年の1909年に歌舞伎座で公開されている。「日本映画は生きている」第2巻「映画史を見直す」182P参照
  6. ^ 1922年7月31日封切り。野村芳亭監督。伊藤大輔脚本。勝見庸太郎、川田芳子、柳さく子出演。サイレント映画。
  7. ^ これより1年後の1923年(大正12年)に同じ松竹蒲田撮影所で製作された『女と海賊』(1923年7月1日封切り。野村芳亭監督。伊藤大輔脚本。勝見庸太郎、川田芳子、柳さく子出演。サイレント映画)を最初に時代劇映画と名付けられた映画とする資料は多い(稲垣浩 著『ひげとちょんまげ』毎日新聞社 など多数)が、早稲田大学文学学術院の小松弘教授はその前年1922年(大正11年)製作の『清水の次郎長』の宣伝文句に「新時代劇」と名称がつけられていた、としている(小松弘 著「旧劇革新と歴史的意義」170P参照 これは「日本映画は生きている」第2巻「映画史を見直す」の注釈より引用)。そして最近出版された『「時代映画」の誕生』(岩本憲児 著 吉川弘文館 2016年7月発行)では、明らかに1922年(大正11年)の雑誌に載せられた「新時代劇」「純映画劇」として『清水の次郎長』の広告を写真付きで説明しており、1923年(大正12年)に製作された『女と海賊』とする説は誤りである。一方で岩本憲児は、時代劇および時代映画という言葉が広がるのは大正末期頃(1920年代半ばあたり)として、この呼称を意図的に使ったのは『女と海賊』である、としている。
  8. ^ 歌舞伎にも立ち回り、すなわち殺陣があって、さまざまな工夫が行われてきたが、その本質は写実ではなく、様式美、形式美、舞踊美である。澤田正二郎はこの剣戟を刷新して大衆の人気を得た。それには当時アメリカで大人気であったダグラス・フェアバンクスの剣戟映画「三銃士」を見て、そのスピード感と躍動感が日本の時代劇にも殺陣の革新を呼び起こしたと言われている。「時代劇伝説ーチャンバラ映画の輝き」14-15P 参照
  9. ^ 映画を発明したのはエジソンで、それをスクリーンに投射して映す方法を考案しその機械であるシネマトグラフを発明したのがフランスのリュミエール兄弟で、そのシネマトグラフを日本に持ち帰ったのが稲畑勝太郎で、その稲畑勝太郎から映画興行の事業を託されたのが横田永之助であった。
  10. ^ 京都千本座に近い大超寺の境内で、歌舞伎の「千歳曽我源氏礎」から「吉野山雪中」と「小柴入道宅」の二場を舞台そのままに撮影されたものである。「時代劇伝説ーチャンバラ映画の輝き」63P 参照
  11. ^ この映画の撮影中に松之助は倒れて死去した。
  12. ^ 1911年(明治44年)から出版された小型の講談本で、文庫の主人公は英雄や豪傑あるいは忍者で当時の大衆文化を代表するものであり、それが松之助映画のヒーローであった。「時代劇映画の思想」15-16P
  13. ^ 尾上松之助の立ち回りは基本的に歌舞伎の型を踏襲したもので要所要所で見得を切るものであった。ただし松之助はそれにケレン味を加えて、それを生かした動きの軽快さやテンポの良さを持っていた。「日本映画は生きている」第2巻「映画史を見直す」163P 参照
  14. ^ 当時日活向島撮影所だけで東猛夫、小栗武雄、衣笠貞之助立花貞二郎木藤茂、土方勝三郎、五月操、大井吉弥といった女形がいたが、日活向島撮影所は現代劇を撮影しており、これらの女形役者は当時の旧劇(時代劇)には出演していない。しかし衣笠貞之助と同じく木藤茂も後に新興キネマで時代劇の監督となった。
  15. ^ この松竹発足時の最初に登場した女優にはこのほか、主に現代劇に出演した栗島すみ子五月信子松井千枝子筑波雪子、東栄子、英百合子沢村春子などがいた。
  16. ^ しかしこの当初の理想はすぐに崩れて、思うように国内での上映ができず、いわゆるブロックブッキングで他社製作を受けつけない興行者と妥協して低俗な内容で国内市場を確保する必要に迫られることになった。そして国内市場開拓のために設立して1年も経たずに経営合理化をして、そのためせっかく招いた新劇の小山内薫の怒りをかった。「秘録 日本の活動写真」田中純一郎著 210-211P 参照 2004年11月発行 ワイズ出版
  17. ^ 「天活」の流れを継承している会社である。
  18. ^ 松之助は愛人の芸者を女優に仕立てて相手役にしようとしたことがあったが、まだ歌舞伎の影響の強かった時代であり、映画館主の反対でとりやめている。『日本映画の若き日々』(稲垣浩、毎日新聞社刊)
  19. ^ 時代劇の撮影所が戦前のマキノ、戦後の東映のイメージから京都が主であるのは確かではあるが、昭和に入ってからも大都映画の巣鴨、PCL(東宝)の砧、日活の調布でも時代劇の撮影が行われており、特に東宝の黒澤明は東京で時代劇を撮影しており、必ずしも京都だけで行われていたわけではない。
  20. ^ 横田永之助は、これを自分に対する反抗と見なしていた。「日本映画史」第1巻 202P 参照。また増長した松之助との不和もあるがこの頃に横田永之助とのトラブルがあったという説もある。「秘録 日本の活動写真」田中純一郎著 222-224P 参照 2004年11月発行 ワイズ出版
  21. ^ 当時アメリカ映画の活劇の手法を時代劇に取り入れて革新的な作品を次々と生み出し、この彼を境に映画は旧劇から時代劇と呼ばれる段階に入ったという説がある。「日本映画は生きている」第2巻 「映画史を見直す」166P 参照
  22. ^ 翌年には林長二郎の人気は社会現象となり、1928年(昭和3年)正月、林が挨拶のため上京すると、東京駅では一万人余りの女性ファンが詰めかけ、雪崩を打ってもみ合い黄色い声援を送った。この過熱ぶりに、「ミーハー」(女性の好きなつまめとやしをかけた言葉)という用語までが生まれることとなった『週刊サンケイ臨時増刊 大殺陣 チャンバラ映画特集』(サンケイ出版)
  23. ^ サイレント映画ではあるが、有名な剣豪の名を語った贋者が本物の剣豪に出会ってしまい、勝負する羽目に陥ったが、そこで「偽者が本物に勝ってしまう」物語である。「権威というものはそれほど大したものではない」というメッセージが込められている。「時代劇映画の思想」30P参照。なお当時旧制中学生で後に映画監督となった市川崑がこの映画を映画館で見て、映画を志すきっかけになった映画でもある。
  24. ^ この名前は当時の六大学野球の有名選手からとったと言われている。『時代劇映画の思想』31P参照
  25. ^ 「日本映画で最も好まれたジャンルの時代劇は、大正末・昭和初期に一つの頂点を迎え、昭和10年代に様々なヴァリエーションを見せながら発展していった」『時代劇映画の思想』55P参照
  26. ^ 1935年、松竹製作。
  27. ^ 1939年、マキノ製作。片岡千恵蔵の急病から急遽製作されたものでほとんど数日で完成させたと言われている。
  28. ^ 「大江戸出世小唄」は時代劇ミュージカルの始原であり、「鴛鴦歌合戦」はその一つの頂点であった。「時代劇映画の思想」46P参照
  29. ^ 1927年に河合徳三郎が設立した河合商会が後に河合映画となり、1933年に大都映画に発展改称し、その後1942年に日活、新興キネマ(帝国キネマの後進)と合併して大映となり、大都映画は消滅した。15年間に1,294本の映画を製作した会社(1,325本製作したという資料もある)でいわゆるB級の三流映画を専門に製作した会社であった。後にプログラムピクチャーと呼ばれた週2本立てで年間100本の製作体制を取ったが、今日そのフィルムは戦災で焼失してほとんど残っていない。1937年には年間110本製作した記録が残っている。所属していた俳優は、阿部九洲夫、松山宗三郎、杉山昌三九、大乗寺八郎、そして後に戦後時代劇スターとなった近衛十四郎、また伴淳三郎も一時所属していた。『幻のB級 大都映画がゆく』65P・77Pおよび151P参照
  30. ^ 嵐寛寿郎もこの時期に二度プロダクションを興しているが、いずれも短期間に終わっている。
  31. ^ ただし、少なくとも1920年代以降の映画には血糊を使った流血の描写があることは確認されており、戦意高揚が叫ばれ始めた1938年の稲垣浩監督の作品で「晒しの上に血が滲む描写が検閲に引っかかった」と言われている。「日本映画は生きている」第2巻 「映画史を見直す」 171P 参照
  32. ^ この時期には、阪東妻三郎には『王将』、片岡千恵蔵には『多羅尾伴内』シリーズが製作された。
  33. ^ 戦前から存在した会社で戦後には東宝に作品を供給して、1968年まで続き、その間に製作した作品は177本にのぼる。嵐寛寿郎の鞍馬天狗シリーズや「右門捕物帖」シリーズも戦後の最初の時期には宝塚映画で製作されて東宝が配給していた。この時に共演した女優には宝塚歌劇の鳳八千代、寿美花代、扇千景らがいた。
  34. ^ 戦前の新興キネマ撮影所を戦後買収して貸しスタジオとして「大泉スタジオ」として設立されて、その後映画製作に乗り出したが赤字であった。後の東映東京撮影所である。
  35. ^ 後発の「東京映画配給」を存続会社として他の2社を吸収合併させる形となったため、「東映」の設立月日は「東京映画配給」の設立日の1949年10月1日となっている。
  36. ^ 1950年代に東宝で全9作、1960年代に東映で同じ監督で全4作が製作された。
  37. ^ 千恵蔵は京都太秦の高台に自宅があったので≪お山の御大≫と呼ばれ、右太衛門は同じ京都の北大路に住んでいたので≪北大路の御大≫と呼ばれた。「千恵蔵一代」154P参照
  38. ^ あらゆる意味で東映を代表する監督。戦後すぐに東横映画で片岡千恵蔵と金田一耕介シリーズと多羅尾伴内シリーズを手掛け、その後『退屈男』『左膳』『黄門』『右門』『新吾』シリーズの何作かメガホンをとり、『忠臣蔵』も3回監督している。父はマキノ省三でマキノ雅弘の異母兄にあたる。
  39. ^ 代表作は『ちいさこべ』『親鸞』『冷飯とおさんとちゃん』
  40. ^ 代表作は『修羅八荒』
  41. ^ 代表作は『一心太助天下の一大事』『暴れん坊兄弟』
  42. ^ 代表作は『瞼の母』『沓掛時次郎遊侠一匹』
  43. ^ 代表作は『白扇みだれ黒髪』
  44. ^ 代表作は『十三人の刺客』
  45. ^ この溝口監督の三作品とも撮影が宮川一夫であった。
  46. ^ 戦後すぐに起きた東宝争議で一旦東宝を離れて大映で製作したただ一作の作品。それがベネチア映画祭グランプリ受賞の『羅生門』だった。この後に東宝に復帰している。
  47. ^ 伊藤大輔は大正時代から各社でメガホンを取っていたが、大映では市川雷蔵主演『切られ与三郎』が代表作。後に東映に移る。
  48. ^ 戦前から長い期間にわたって各社でメガホンを取っている。大映では1958年に長谷川一夫主演オールスターキャストの『忠臣蔵』を作っている。
  49. ^ 雷蔵と勝新の共演『薄桜記』、勝新の『不知火検校』、雷蔵の『大菩薩峠・第三部』が代表作である。
  50. ^ 山本富士子主演『千姫御殿』、雷蔵主演『斬る』および『大菩薩峠』第一部と第二部、勝新主演『座頭市物語』が代表作である。
  51. ^ 嵐寛寿郎と花柳小菊が共演して佐藤忠男はこの映画を「戦前戦後を通じて中山安兵衛の作品のうち最高の作品である」と述べている。「嵐寛寿郎と100人のスター〜女優編〜」142P 荷村寛夫 著
  52. ^ 1955年製作。新東宝。伊藤大輔監督。田崎潤、嵯峨美智子主演。愚かな主人に忠義を尽くす家来の悲劇を描いている。
  53. ^ 1957年製作。新東宝。山田達雄監督。嵐寛寿郎主演。アラカンの原田甲斐が悪役で最後は大立ち回りとなる。
  54. ^ 早撮りの名人としても有名で各社を渡り歩いた監督だが、この新東宝では時代劇ではないが新東宝唯一の大ヒット作『明治天皇と日露大戦争』を作っている。
  55. ^ この両作品とも脚本は菊島隆三である。
  56. ^ 日活製作再開3周年記念映画として製作。フランキー堺主演。しかし石原裕次郎、小林旭、二谷英明など当時の日活スターが脇役で総出演してオールスターキャストである。古典落語の「居残り佐平次」「品川心中」を原案にした品川遊郭での人間模様を描いている。今ではコメディ時代劇としても評価が高い作品である。
  57. ^ 1957年製作。松竹。大石内蔵助役に歌舞伎界から二代目市川猿之助(初代市川猿翁)、大石主税に市川団子(後の三代目市川猿之助、二代目初代市川猿翁)、早野勘平に高田浩吉、他に坂東蓑助、先代松本幸四郎、市川染五郎(現松本幸四郎)など歌舞伎界と映画界のスターを集めた。脚本は井手雅人。
  58. ^ 木下順二が書いた戯曲を高岩肇が脚本化したもので、もとはスペインの作家が書いた「三角帽子」を翻案したもの。1958年製作。歌舞伎座製作、松竹配給。中村勘三郎、伊藤雄之助、有馬稲子、香川京子出演。村祭りの夜の夜這いを滑稽に描いたもので、この原作はその後に歌舞伎、テレビドラマ、オペラにも使われている。
  59. ^ 1960年製作。松竹。甲斐の武田三代(信虎・信玄・勝頼)の武将に仕えた足軽一家の悲劇を描いている。田村高広、市川染五郎(現松本幸四郎)、高峰秀子、岩下志麻らが出演。木下監督の数少ない時代劇作品。
  60. ^ この当時東映では殺陣師の扱いは大きく、立ち回りシーンの演出を任されることが多かったが、東宝では専門職としては認められていなかった。黒澤明は『用心棒』の撮影に当って久世竜を東宝としては初めて殺陣師として起用して、東映時代劇に対抗する新しい殺陣を模索していた。東映流の形をカッコ良く決めることにこだわるのではなく、あくまで斬ることのリアルなアクションを求め、主役の三船敏郎が並みでない体力と身体能力で斬りかかり、斬られ役がこれにどう攻め込むかまで考えて斬りかかり、結果は殺陣にリアルな迫力が生まれ、ラストの三船の「十二人斬り」は話題となった。東映時代劇のエースである松田定次監督は後に「自分の撮った『赤穂浪士』が作品密度の点で『用心棒』に及ばない」と語っていた。「仁義なき日本沈没」80-84Pおよび97P 参照
  61. ^ 稲垣浩監督は宮本武蔵を戦前に5本、戦後は東宝で三船敏郎主演で3本、計8本メガホンを取っている。
  62. ^ マキノ監督は後に《僕にとってこの『次郎長三国志』は楽しい仕事でした。今日の東宝の基礎を作ったのはこの『次郎長三国志』です。これを撮らなかったら会社は潰れてましたよ。》と語っている。
  63. ^ 中村錦之助主演で清水次郎長を主人公の東海道シリーズの1作。この時に『椿三十郎』は配給収入18億円、対するこの錦之助主演のオールスター時代劇は11億円で倍近くの差がついた。「仁義なき日本沈没」95P参照
  64. ^ 「椿三十郎」を見て、ある東映関係者は「これは敵わん」と言い、鈴木則文は「ラストの仲代の身体から血がパーッと噴き出た時に東映の時代劇の様式美が音を立てて崩れていった。」と語っている。「あかんやつら 東映京都撮影所血風録」153P参照
  65. ^ それまで1系統だけで年間80本は製作されていたが、本来現代劇路線のはずの第二東映も映画館側からの強い要請で時代劇を作らざるを得なくなり、年間に直すと2系統で100本は遥かに超えて時代劇を製作していた。そのためにスター不足となり、松竹から高田浩吉近衛十四郎を呼んでいた。近衛十四郎は戦前の大都、戦後の松竹、そして東映と移り、その後テレビ時代劇『素浪人 月影兵庫』で人気スターの座を不動にした。
  66. ^ しかし内容はミュージカル調講談でバラエティー番組でもあった。
  67. ^ 1957年にKRラジオからラジオ番組として始まり、その後ラジオ東京テレビよりテレビ番組となった。主演は尾上緑也。共演者にはラジオで吉永さゆり、藤田弓子、山東昭子(ナレーション)、テレビでは同じ役で吉永さゆり、他に五月みどりが出演していた。また当時ほぼ同時に大阪の大阪テレビ(後に朝日放送と毎日放送に分かれる)が同じ番組を別に製作している。
  68. ^ 1961年10月から1962年12月まで、毎週火曜日夜に放送され、近藤勇を中村竹弥、土方歳三を戸浦六宏が演じた。スタジオドラマで、池田屋襲撃を当時としては珍しくフィルム撮影ではなく、テレビカメラによる屋外中継を入れた、テレビ時代劇の歴史に残る番組であった。
  69. ^ ラジオ東京テレビ・TBS系で何度か主演を変えて放送されており、1956年11月から始まった最初の放送には市川高麗蔵、その後市川団子(後の市川猿之助)、そして中村竹弥が1963年に主演している。
  70. ^ 1958年に日本テレビ系で放送され、当初は若柳敏三郎、途中から外山高士主演。共演で松島トモ子。映画で大友柳太郎のシリーズがある。
  71. ^ 1958年日本テレビ系で丹波哲郎が主演。
  72. ^ 1958年にラジオ東京テレビ系で(若山富三郎主演)、その後1962年に同じTBS系で(安井昌二主演)、後にフジテレビ系で(大川橋蔵主演)、それぞれ放送された長期シリーズとなった。
  73. ^ 1957年、日本テレビ系で江見俊太郎主演。池内淳子共演。柴田錬三郎原作の初のテレビドラマ化であった。
  74. ^ 1959年、ラジオ東京テレビ系で水島道太郎主演。
  75. ^ 1958年、日本テレビ系で細川俊夫主演。その後『新吾二十番勝負』がフジテレビ系で夏目俊二主演で放送された。
  76. ^ 風小僧は1959年、白馬童子は1960年で両作とも東映製作で当時資本参加していたNET(現テレビ朝日)系。主演は山城新吾。
  77. ^ 『風小僧』と同じ1959年に製作された東映作品。南郷京之助主演。その少年時代の牛若丸を演じたのが当時13歳だった北大路欣也である。
  78. ^ 1959年、関西テレビ系で夏目俊二主演。製作は関西テレビに資本参加していた東宝系の宝塚映画。劇場用映画では大川橋蔵主演のシリーズがある。
  79. ^ 元来は隠密もののジャンルに入るが、第2部でテコ入れして忍者路線に切り替えたことが成功につながった。そしてここでの忍者の行動や所作はプロデューサーのオリジナルであり、忍者が刀を逆手に持つポーズや卍型の手裏剣などは、その後の忍者ものに影響を与えた。樋口尚文「月光仮面を創った男たち」165P参照。平凡社新書、2008年9月
  80. ^ 1993年と1994年は1年間ではなく『琉球の風』『炎立つ』『花の乱』の3作品が半年と9か月間の放送であった。
  81. ^ 1963年から1969年にかけてフジテレビ系で放送。五社英雄演出、丹波哲郎・平幹二朗・長門勇の3人の浪人が主人公で、凄まじい殺陣の演出、また刀で人を斬るシーンでは音を発していたのが当時話題となった。なお第2部以降は丹波哲郎に代わり加藤剛が出演していた。
  82. ^ 1965年、NET系。栗塚旭主演(土方歳三役)。近藤勇役は舟橋元。
  83. ^ 1965年、NET系。近藤十四郎と品川隆司が繰り広げる道中記スタイルの時代劇であった。
  84. ^ 1966年から1984年までフジテレビ系で大川橋蔵主演。足かけ18年の長期シリーズとなった。18年間で全888話。
  85. ^ テレビ創成期の1954年に榎本健一主演で日本テレビ系で放送されたが、その後1957年に十朱久雄主演でラジオ東京テレビ系、1960年には花柳寛主演でフジテレビ系、市川左團次主演で日本テレビ系、古川緑波主演で毎日放送製作でNET系で放送された。その後東京五輪終了後の1964年秋に東映映画の重鎮月形龍之介主演でTBS系で翌1965年暮れまで放送されたが、代表作は東野英治郎らの主演で1969年からTBS系で始まり、2011年まで続いた超長期シリーズである。水戸黄門を演じたのは5名、全43部、全製作本数1,227話。記録的なテレビシリーズであった。
  86. ^ 1970年から1999年まで続いた超長期シリーズ。全15部、全製作本数402話。水戸黄門は5人が演じたが、この大岡越前は加藤剛が足かけ30年間演じ続けた。なお初回は1970年3月16日で、大阪での日本万国博の開会式の翌々日であった。
  87. ^ 1957年に坂東好太郎主演でNHK、1960年に夏目俊二主演でフジテレビ系、1962年に坂東鶴之助でNHK、1967年に市川新之助(後の市川團十郎)主演で日本テレビ系で放送された。しかし記憶に残るのはNETが1970年からスタートしたシリーズで、中村梅之助、市川段四郎、橋幸夫、杉良太郎、高橋英樹、松方弘樹、松平健らが歴代主演している。
  88. ^ 笹沢佐保原作、市川昆、森一生、池広一夫らが監督、中村敦夫主演で1972年1月からフジテレビ系で放送された。
  89. ^ ただし現在ではCGなどのデジタル技術により、電信柱や現代の建築物を画面上から消すことが可能であり、かつてよりはロケ地を選ぶ必要は無くなったといえる。それは大道具など一部の美術にも応用できる半面、予算がかかるという根本的な問題もまた抱えている。
  90. ^ しかし映像コンテンツとしての需要は高く、再放送枠やCS系有料放送、DVDビデオ販売の分野においては今なお重宝されている。2009年4月9日の水戸黄門 (パナソニック ドラマシアター)の再放送は同日放送されたTBSの番組のうち、最高視聴率を出している[1]
  91. ^ それ以外の時代劇ドラマは2020年現在、NHKの「大河ドラマ」と時代劇枠二つ(「土曜時代ドラマ」「BS時代劇」)の計3枠のみであり、民放では前述した通り、時代劇の放送自体が年数回 - 数年に一回・単発での放送に縮小されている。
  92. ^ クライマックスは剣(日本刀)による殺陣を主軸とするもの。時代劇の大多数を占めるもので、多くは興行的な観点から文学的要素よりも娯楽性が重んじられた内容になっている。テレビドラマの現代劇では刀剣類を使った殺傷場面を直接描くことは視聴者に対し犯罪を助長するとの判断から自粛されつつあるのに対し、時代劇では剣劇は非常に形式的な身体技法と、制作者と視聴者側の“暗黙の了解”たとえば黒澤明の作品などに代表される映像文学的要素や写実性などを追求した劇場作品では、斬殺の瞬間、殺害された側の衣類が裂けて肌が露出し、血液が数メートルにわたって迸ったり、腕が切り落とされ血が噴き出す場面を設定することがある。対して、娯楽性が重視されるお茶の間に向けて放送されるテレビの時代劇ではそのようなリアルで直接的な殺害描写はほとんど無く、主人公の優美かつ華麗な立ち回りの挙措と、一定のストーリー定型の元で最終的に悪者をばったばったと斬って捨てて断罪するカタルシスの昇華に重きが置かれた、ある種の様式美によって作品自体が構成されている。この暗黙の了解によって表現されており、このため短時間に多数の人間が刃物によって殺傷されている場面にもかかわらず批判の対象とされることはない。
  93. ^ 1965年東映製作。沢島忠監督。仲代達矢、志村喬と松方弘樹、中村錦之助の渡世人の3つの話をオムニバス形式にしてヤクザの世界を描いた秀作。中村錦之助が強そうで実は弱いヤクザを好演。
  94. ^ 忍者ものでヒットしたが、それは途中第2部から忍者路線にしたためで、もとのお話は徳川将軍の弟君が身を隠して各藩を探索するのが本筋のお話であった。
  95. ^ 忍者映画(忍者もの)を時代劇に含めるかどうかで、基本的には分けて扱うことが多いという向きがあるが、もともと時代劇が始まった時から忍者は1つのジャンルであり(歌舞伎の演目でも入っている)、尾上松之助の映画からいつの時代でも人気のあるジャンルであった。広義の解釈では入るということではなく、映画そのものの面白さを追求すれば非現実的な内容を入れることは至極当然であり、時代劇はあくまで舞台設定が日本が近代化する以前であることで成り立っている。
  96. ^ 1921年製作。日活。マキノ省三監督、尾上松之助主演。サイレント映画。歌舞伎から題材をとった忍術のトリックで、フィルムが現存している。
  97. ^ 1960年製作。大映。森一生監督。勝新太郎主演。勝新が演じる按摩で全盲のワル役が悪事を重ねながら不知火検校になるお話で、この映画のヒットが座頭市シリーズに繋がった。
  98. ^ 1952年製作。東映 萩原遼監督。戦後最初の本格的な忠臣蔵映画。片岡千恵蔵が浅野内匠頭・大石内蔵助の二役を演じている。ただし続編の「続赤穂城」までのお話は城明け渡しであり、吉良邸討ち入りの場面はない。
  99. ^ 同名で2つ作品があり、最初は1954年9月公開の大映作品。荒井良平監督。黒川弥太郎の浅野内匠頭、進藤英太郎の大石内蔵助。4つのエピソードを当時の人気浪曲師が名調子で唸る浪曲版忠臣蔵。二度目は1957年12月公開の東映作品。伊賀山正光監督。月形龍之介が演じる天野屋利兵衛を主役にした映画で、忠臣蔵の外伝物である。大石内蔵助には大河内伝次郎が扮し、またこの作品も浪曲が入っている。
  100. ^ 1954年10月公開。戦後初めて「忠臣蔵」のタイトルで製作された作品。公開当時の資料では第1部(花の巻)104分、第2部(雪の巻)137分の合計4時間1分の上映時間であったとされるが、現存する版は3時間8分である。これは戦後の忠臣蔵映画では最も長い作品で、単独公開としては最長尺作品と見られている。大石内蔵助には八代目松本幸四郎、浅野内匠頭には高田幸吉、吉良上野介には滝沢修が演じ、監督は大曾根辰夫。大曾根辰夫はこの3年後にも同じ松竹の「大忠臣蔵」も監督している。そして八代目松本幸四郎はこの後に東宝に移り、8年後の東宝創立30周年記念映画の「忠臣蔵」で再び大石内蔵助を演じている。
  101. ^ 1962年9月9日公開。5年前に製作した「大忠臣蔵」を再編集して、もともと155分の映画を108分に縮尺した作品。そして後述の「義士始末記」との二本立てで公開された。
  102. ^ 1962年製作。松竹、大曾根辰夫監督。その5年前に製作された「大忠臣蔵」を「仮名手本忠臣蔵」に改題してリバイバル上映し、合わせて併映作品として、討ち入り後の赤穂浪士の処分に苦慮し最後は武士の本懐として切腹させるまでを描いている。市川新之助、島田正吾、岡田茉莉子、岩下志麻が出演している。
  103. ^ 1954年製作。大映。溝口健二監督。長谷川一夫と香川京子主演。井原西鶴の「好色五人女」の中の「おさん茂兵衛」の実話を基にしてほぼ30年後に近松門左衛門が書いた歌舞伎の演目「大経師昔暦」をベースにした川口松太郎の戯曲「おさん茂兵衛」を映画化したものである。
  104. ^ 1958年製作。松竹。今井正監督。三國連太郎と有馬稲子主演。近松門左衛門の戯曲から橋本忍、新藤兼人が脚本。武士の妻の不義密通を描いている。
  105. ^ 1959年製作。東映。内田吐夢監督、中村錦之助と有馬稲子主演。近松門左衛門の「冥途の飛脚」などを基にした心中物。片岡千恵蔵が近松門左衛門役で出演している。
  106. ^ 1969年製作。表現社およびATG。篠田正浩監督。中村吉右衛門と岩下志麻主演。歌舞伎の様式を大胆に取り入れて黒子が登場する異色作。
  107. ^ ただし映画の原作は同じ芥川の「藪の中」である。
  108. ^ 1953年1月3日公開。新東宝製作。斎藤寅次郎監督。古川緑波の大石内蔵助、エンタツ・アチャコ、柳家金語楼、伴淳三郎などが出演。
  109. ^ 日本初のシネマスコープ作品。大友柳太朗主演。若殿さまの嫁探しをユーモラスに描いた時代劇。1957年4月2日公開。
  110. ^ 1957年から大阪OTVで制作された上方コメディ番組。当時漫才で一世を風靡した中田ダイマル・ラケットが目明しで、それを指導する与力が藤田まこと、その妹で武芸達者な女を森光子が演じていた。藤田まことと森光子はこの番組から全国に顔が知られるようになり、2人にとって出世作となった番組である。
  111. ^ 1922年製作。尾上松之助主演。全編64分のサイレント映画で「目玉の松ちゃん」の映画では唯一全編のフィルムが残っている映画と言われる。渋川伴五郎は実在の人物で江戸時代前期の柔術家。映画では力自慢のヒーローとして松之助が演じて妖怪と父の仇を討つストーリーである。監督はマキノ省三ではなく築山幸吉である。
  112. ^ 1962年製作。東映。内田吐夢監督、大川橋蔵主演。人形浄瑠璃の「芦屋道満大内鑑」、清元の古典「保名狂乱」をもとに宮廷陰陽師の安部保名を主人公にした平安時代のファンタジー時代劇。他の時代劇には見られない独特の映像表現の異色作である。因みに主人公は陰陽師安部清明の父であり、この映画のラストシーンは清明の誕生で終わっている。
  113. ^ 1964年製作。東映。加藤泰監督。大川橋蔵主演。原作は司馬遼太郎。
  114. ^ 1959年にラジオ東京テレビ系の「赤胴鈴之助」に対抗して日本テレビ系で放映された少年剣劇もの。主演は手塚しげお。彼はその後ボーカルグループ「スリーファンキーズ」に加入し歌手となった。その時に入れ替わりにこのグループを退団したのが高橋元太郎で彼は後に「水戸黄門」シリーズで「うっかり八兵衛」を30年間演じた。
  115. ^ 文化風俗・服飾をはじめとする設定について厳密な時代考証や再現性は重要視せず、西部劇SFなど、あらゆるジャンルの要素をミックスしたアバンギャルドな内容。上記の“活劇もの”にも通じる要素の色濃い作品も含む。
  116. ^ 鳴滝組の影響を受けて、京都大学に入学したが太秦撮影所に入り浸り、その後大学を中退して日活京都撮影所の監督となる。「春秋一刀流」「うぐいす侍」「仇討交響楽」「狐の呉れた赤ん坊」「天狗飛脚」「蛇姫道中」などの作品を残した。因みに、名前の丸根は女優マレーネ・ディートリヒから、賛太郎は「三太郎の日記」からとったとされている。
  117. ^ 「忠臣蔵」を1954年と1957年、そして1962年にその続編「義士始末記」を作り、この他に嵐寛寿郎の「鞍馬天狗」、市川右太衛門の「旗本退屈男」、美空ひばりの「ひばり姫初雲道中」などの多彩なスター映画を松竹で撮って、松竹時代劇を代表する映画監督である。
  118. ^ 1949年から1953年の期間で大映と東宝で大河内傅次郎の「水戸黄門」、嵐寛十郎の「鞍馬天狗」のシリーズや「緋牡丹盗賊」「あばれ熨斗」「万花地獄」などを撮っていたが、1953年12月25日に「鞍馬天狗斬りこむ」(宝塚映画)の撮影終了後に宝塚の宿舎でガス中毒のため死去した。
  119. ^ 一心太助をもじった上方コメディー。大阪ミナミの南街会館での劇場公開番組で毎週日曜夜6時からの30分の劇場生中継であった。脇役に漫才のいとし・こいし、女性3人ボーカルの「トリオこいさんず」等が出演。なおこの劇場は普段は映画館で、当日も夕方まで映画上映であった。
  120. ^ 原作は「神谷玄次郎捕物控」(藤沢周平)で、尾上菊五郎が神谷玄次郎を演じている。
  121. ^ 第6シーズンまで制作したが、丹波哲郎は第1シーズンのみで途中降板して、第2シーズンから加藤剛が加わった。
  122. ^ 原作は石ノ森章太郎の漫画「佐武と市捕物控」。TBS版は題名が「十手野郎捕物控」と改題されている。1981年にフジテレビで「佐武と市捕物控」の題名でスペシャル時代劇として制作されている。またアニメ版も1968年に毎日放送制作で放送されている。
  123. ^ 長谷川一夫テレビ初登場。大河ドラマ史上最高視聴率53%を記録。
  124. ^ 「江戸を斬る」(西郷輝彦および里見浩太朗)シリーズは別掲参照。
  125. ^ NHK大河ドラマ第1作。
  126. ^ テレビドラマ史上初の時代劇。
  127. ^ 「アメリカ人が考えるような間違った日本観」がテーマであり、内容的には「ハイパー時代劇」の部類に入る。
  128. ^ 内容的には「ハイパー時代劇」の部類に入る。
  129. ^ 原作は南條範夫の『駿河城御前試合』だが、山口による大幅な脚色がなされている。
  130. ^ 隆慶一郎の時代小説の漫画化。
  131. ^ 山田風太郎原作の時代小説の漫画化。
  132. ^ テレビ東京 水戸黄門のアニメ。
  133. ^ 例年、1月の三箇日のいずれかに放送。
  134. ^ 1985年から1993年にかけて、12月30日・31日の2夜連続(1991年以降は31日のみ)で放送され、1993年をもって終了した。「忠臣蔵」・「白虎隊」・「田原坂」などを放送した。
  135. ^ シリーズ終了後も単発で放送されたほか、2009年に久々の連続作品として必殺仕事人2009を放送。
  136. ^ 2009年1月開始の必殺仕事人2009が該当。
  137. ^ 最近はこの枠に現代劇が割り当てられる場合がある。かつては「時代劇の殿堂」という再放送枠を名乗っていた。
  138. ^ 月曜20時-20時54分,1969年-2001年迄は原則時代劇、それ以降は水戸黄門と現代劇を交互に放送。
  139. ^ 例年1月2日に放送。
  140. ^ 時代劇。関西テレビ放送で1973年10月-1975年3月の1年半日曜21時で放送。終了後、「関西テレビ制作連続時代劇」へ受け継ぐ。

出典

  1. ^ 時代劇コトバンク、2009年10月24日閲覧。
  2. ^ a b 時代劇映画、コトバンク、2009年10月24日閲覧。
  3. ^ a b 映画用語事典 2012, pp. 60–61.
  4. ^ 「世界映画大事典」379P 時代劇映画の項
  5. ^ 「日本映画は生きている」第2巻 「映画史を見直す」181P 参照 中部大学人文学部准教授 小川順子
  6. ^ a b 剣劇コトバンク、2009年10月24日閲覧。
  7. ^ ちゃんばらコトバンク、2009年10月24日閲覧。
  8. ^ a b 「日本映画は生きている」第2巻「映画史を見直す」162P参照
  9. ^ a b 「日本映画は生きている」第2巻「映画史を見直す」163P参照
  10. ^ 岩本憲児 著『「時代映画」の誕生』204P参照
  11. ^ 岩本憲児 著『「時代映画」の誕生』48-52P参照
  12. ^ a b 岩本憲児 著『「時代映画」の誕生』204-205P参照
  13. ^ 岩本憲児 著『「時代映画」の誕生』69P参照
  14. ^ 岩本憲児 著『「時代映画」の誕生』205P参照
  15. ^ 時代物コトバンク、2015年8月6日閲覧。
  16. ^ 「時代劇伝説ーチャンバラ映画の輝き」10P 参照
  17. ^ 「時代劇伝説ーチャンバラ映画の輝き」11P 参照
  18. ^ 新派劇コトバンク、2009年10月24日閲覧。
  19. ^ 新劇コトバンク、2009年10月24日閲覧。
  20. ^ 新国劇コトバンク、2009年10月24日閲覧。
  21. ^ 『時代劇映画の思想』12-15P
  22. ^ 「日本映画は生きている」第2巻「映画史を見直す」チャンバラと歌舞伎 162P 参照
  23. ^ 『日本映画史110年」48P参照
  24. ^ 「日本映画は生きている」第2巻「映画史を見直す」162P 参照
  25. ^ 「映画100物語〜日本映画編〜」10P ≪日本映画の伝統を築いた人々≫参照
  26. ^ 『日本映画史110年』74P参照
  27. ^ 「時代劇映画の思想」16P参照
  28. ^ 『日本映画史110年」75P参照
  29. ^ 『日本映画史110年」54P参照
  30. ^ 「秘録 日本の活動写真」田中純一郎著 200-202P 参照 2004年11月発行 ワイズ出版
  31. ^ 「日本映画は生きている」第2巻 「映画史を見直す」164-165P 参照
  32. ^ 「時代劇映画の思想」16-17P参照
  33. ^ 「日本映画は生きている」第2巻 「映画史を見直す」 164P 参照
  34. ^ 『時代劇映画の思想』23P参照
  35. ^ 『時代劇映画の思想』26-28P参照
  36. ^ 「時代劇映画の思想」25P参照
  37. ^ 「時代劇伝説ーチャンバラ映画の輝き」67P 参照 ただし元は田中純一郎著「日本映画発達史1」中公文庫 1975年発行 231P からの引用である。
  38. ^ 「時代劇映画の思想」29-31P参照
  39. ^ 「時代劇映画の思想」33P参照。
  40. ^ 『幻のB級 大都映画がゆく』77P参照
  41. ^ 『チャンバラ王国極東』、赤井祐男・円尾敏郎編、ワイズ出版、1998年 ISBN 4948735914.
  42. ^ 「世界映画大事典」380P 時代劇映画の項
  43. ^ 「時代劇映画の思想」39-43P参照
  44. ^ 『週刊サンケイ臨時増刊 大殺陣 チャンバラ映画特集』(サンケイ出版)
  45. ^ 「日本映画は生きている」第2巻 「映画史を見直す」172P 参照
  46. ^ 『聞書アラカン一代 - 鞍馬天狗のおじさんは』(竹中労、白川書院)
  47. ^ 『時代劇映画の思想』51-54P参照
  48. ^ 世相風俗観察会『増補新版 現代世相風俗史年表 昭和20年(1945)-平成20年(2008)』河出書房新社、2003年11月7日、27頁。ISBN 9784309225043 
  49. ^ 「仁義なき日本沈没」52-53P参照
  50. ^ 「仁義なき日本沈没」54P参照
  51. ^ 「千恵蔵一代」146-147P 参照
  52. ^ a b c d e f g h i j k l “《芸能トピック》 斜陽化吹き飛ばす大型時代劇 ブーム再来へ続々 勝プロも"座頭市"で進出”. 日刊スポーツ (日刊スポーツ新聞社): p. 11. (1969年1月16日) 
  53. ^ 『時代劇映画の思想』88-96P参照
  54. ^ 『時代劇映画の思想』77-87P参照
  55. ^ もとは活動弁士から映画界に入り、興行主となり、映画会社社長となった。新東宝倒産後は大蔵映画を設立してピンク映画の製作に乗り出した。
  56. ^ 『時代劇映画の思想』65-69P参照
  57. ^ 『時代劇映画の思想』71-73P参照
  58. ^ 谷川健司 著「戦後忠臣蔵映画の全貌」165P参照
  59. ^ 『時代劇映画の思想』74-76P参照
  60. ^ 「仁義なき日本沈没」73P参照
  61. ^ 『時代劇映画の思想』57-65P参照
  62. ^ 歴史|東映株式会社〔任侠・実録〕(Internet Archive)“「日本映画界のドン」岡田茂氏逝く”. スポーツニッポン (スポーツニッポン新聞社). (2011–05–10). オリジナルの2011年5月13日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20110513090859/https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2011/05/10/kiji/K20110510000789400.html 2022年12月12日閲覧。 “岡田茂・東映名誉会長が死去”. 日本経済新聞 (日本経済新聞社). (2011–05–09). オリジナルの2015年9月27日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20150927124006/https://www.nikkei.com/article/DGXNASDG09011_Z00C11A5CC0000/ 2022年12月12日閲覧。 “【産経抄】5月14日”. 産経新聞. (2011年5月14日1面、産経抄). オリジナルの2011年5月18日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20110518131744/http://sankei.jp.msn.com/entertainments/news/110514/ent11051402560000-n1.htm 2022年12月12日閲覧。 早見俊 (2021年1月23日). “「ヤクザ映画」抜きに東映の成功は語れない理由「仁義なき戦い」を世に出した岡田茂の慧眼”. 東洋経済オンライン. 東洋経済新報社. 2021年1月23日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年12月12日閲覧。
  63. ^ 東映株式会社総務部社史編纂 編『東映の軌跡』東映、2016年、564頁。 佐藤忠男 編『日本の映画人 日本映画の創造者たち』日外アソシエーツ、2007年、122頁。ISBN 978-4-8169-2035-6 “【戦後史開封】(290) チャンバラ映画(5) 時代劇撤退次々去った東映スター”. 産業経済新聞 (産業経済新聞社): p. 朝刊特集. (1995年3月18日) 高岩淡(東映京都撮影所所長代理)「才能と個性の発見で新路線を開発」『映画時報』1971年2月号、映画時報社、17頁。 『私と東映』× 神先頌尚氏インタビュー(第3回 / 全4回)金田信一郎「岡田茂・東映相談役インタビュー」『テレビはなぜ、つまらなくなったのか スターで綴るメディア興亡史』日経BP、2006年、211-215頁。ISBN 4-8222-0158-9 NBonlineプレミアム : 【岡田茂・東映相談役】テレビとXヤクザ、2つの映画で復活した(Internet Archive)早見俊 (2021年1月23日). “「ヤクザ映画」抜きに東映の成功は語れない理由「仁義なき戦い」を世に出した岡田茂の慧眼”. 東洋経済オンライン. 東洋経済新報社. 2021年1月23日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年12月12日閲覧。
  64. ^ a b c d “日本映画復興は時代劇から 『風林火山]』成功が刺激 大映 勝、雷蔵らで大攻勢”. 日刊スポーツ (日刊スポーツ新聞社): p. 15. (1969年5月1日) 
  65. ^ a b “芸能ワイド 映画界は時代劇ブーム 大作軒なみヒット 早くもスターの争奪戦”. 報知新聞 (報知新聞社): p. 14. (1969年5月1日) 
  66. ^ a b c 「映画・トピック・ジャーナル 映画界にも多大な功績を残したフジサンケイグループ議会議長の鹿内春雄氏が急逝。氏の足跡と今後について―。」『キネマ旬報』1986年6月上旬号、キネマ旬報社、132-133頁。 渡部明夫「『子猫物語』 民放の雄から外部プロの雄へ ―フジTV映画の映画界における今日までの歩み―」『キネマ旬報』1986年6月下旬号、キネマ旬報社、52-53頁。 
  67. ^ a b 相良智弘 (2015年6月12日). “テレビ局と映画製作の歴史(その1)/映画製作に最も熱心だったのはフジテレビ!”. ムービーコレクション. キッチュ. 2022年12月12日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年12月12日閲覧。
  68. ^ 『なぜ時代劇は滅びるのか』14-16P参照
  69. ^ 『なぜ時代劇は滅びるのか』16P参照
  70. ^ 『なぜ時代劇は滅びるのか』17P参照
  71. ^ 『なぜ時代劇は滅びるのか』18P参照
  72. ^ 『なぜ時代劇は滅びるのか』19P参照
  73. ^ 『なぜ時代劇は滅びるのか』、p.20-21.
  74. ^ 『なぜ時代劇は滅びるのか』、p.22-23.
  75. ^ 『なぜ時代劇は滅びるのか』、p.24-25.
  76. ^ 鈴木嘉一 (2012年10月16日). “TVウォッチング:テレビ時代劇に「新しい酒」を”. YOMIURI ONLINE. 読売新聞社. 2012年11月2日閲覧。
  77. ^ キムタクからバトン!小栗「信長」×ミスチルで月9初時代劇!!”. サンケイスポーツ (2014年9月5日). 2014年9月4日閲覧。
  78. ^ LED バーチャルプロダクション@けいはんなロボット技術センター京都府公式HP内「京都府の産業支援について」
  79. ^ 時代考証を務めた歴史学者丸島和洋のTwitterでの投稿:「伊達政宗。眼を隠すかどうかは議論になりました。刀の鍔を眼帯にしたというのは、たぶん「独眼竜政宗」かそれに先立つ映像作品の創作です。同時代に近い史料をみると、眼を覆っていた様子がないので、何もなしという案もあったのですが、「誰だか分からない」という実に的確な意見でああなりました。」” (2016年). 2016年6月21日閲覧。
  80. ^ 「日本在来馬と西洋馬---—獣医療の進展と日欧獣医学交流史」(日本獣医師会)
  81. ^ 「大作に町全体協力「長篠の合戦」再現・北海道新聞



「 髷物」の例文・使い方・用例・文例

Weblio日本語例文用例辞書はプログラムで機械的に例文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「 髷物」の関連用語

 髷物のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



 髷物のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
デジタル大辞泉デジタル大辞泉
(C)Shogakukan Inc.
株式会社 小学館
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの時代劇 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。
Tanaka Corpusのコンテンツは、特に明示されている場合を除いて、次のライセンスに従います:
 Creative Commons Attribution (CC-BY) 2.0 France.
この対訳データはCreative Commons Attribution 3.0 Unportedでライセンスされています。
浜島書店 Catch a Wave
Copyright © 1995-2024 Hamajima Shoten, Publishers. All rights reserved.
株式会社ベネッセコーポレーション株式会社ベネッセコーポレーション
Copyright © Benesse Holdings, Inc. All rights reserved.
研究社研究社
Copyright (c) 1995-2024 Kenkyusha Co., Ltd. All rights reserved.
日本語WordNet日本語WordNet
日本語ワードネット1.1版 (C) 情報通信研究機構, 2009-2010 License All rights reserved.
WordNet 3.0 Copyright 2006 by Princeton University. All rights reserved. License
日外アソシエーツ株式会社日外アソシエーツ株式会社
Copyright (C) 1994- Nichigai Associates, Inc., All rights reserved.
「斎藤和英大辞典」斎藤秀三郎著、日外アソシエーツ辞書編集部編
EDRDGEDRDG
This page uses the JMdict dictionary files. These files are the property of the Electronic Dictionary Research and Development Group, and are used in conformance with the Group's licence.

©2024 GRAS Group, Inc.RSS