劇団創設の経緯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/19 09:00 UTC 版)
澤田正二郎は早稲田大学文学科在学中の1910年、文芸協会の演劇研究所(責任者・坪内逍遥。後に文芸協会会長となる)に第2期生として入所。1912年、有楽座における文芸協会第3回公演で初舞台を踏んだ。 1913年に文芸協会が解散すると、澤田は島村抱月が組織した芸術座に参加した。澤田は芸術座の俳優としては座頭格の松井須磨子に次ぐナンバー2の位置を占めていたが、1917年3月新富座の『お艶と新助』での須磨子との共演を最後に倉橋仙太郎・中田正造・金井謹之助・三好栄子・明石澄子らとともに退座した。ただちに新国劇を結成し、翌4月同じ新富座で旗揚げをしたのである。 澤田の芸術座脱退については、かねてからあった主宰者島村抱月と松井須磨子との関係やそれゆえの須磨子の横暴に対する嫌悪が爆発したものとされるが、初めての髷物で新助に扮した自分の演技があまりにも素人っぽいことへの反省と出直しの決意を示したとも思われる。
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