訪欧
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/06 07:51 UTC 版)
1888年4月13日にリサールはサンフランシスコ行きの船に乗り込み、船中で後に衆議院議員となる自由民権運動の壮士、末広鉄腸と懇意になった。英語が話せなかった鉄腸は「親切なフィリピン人青年が船で助けてくれた」と書き残しており、リサールは前述の僅かな滞在中に、多少なりとも通訳ができるようになっていたようである。当初の鉄腸の目的は訪米だったが、リサールと意気投合したために予定を変更して4月28日のサンフランシスコ到着後も行動を共にし、5月16日にリサールと共にイギリスのリバプールに到着した後、ロンドンにて別れている。ロンドン到着後のリサールは大英博物館をはじめとする、イギリス、ベルギー、パリの図書館に通いながら古代史の研究を進め、スペイン人による植民地化以前のフィリピンの歴史を研究した。1889年、ロンドンで日本の民話「さるかに合戦」とフィリピンの民話「さるかめ合戦」を比較した論考を著している。 同年2月15日にはロペス・ハエナやデル・ピラールらマドリードに滞在していたフィリピン出身者と共に、半月刊のスペイン語新聞『ラ・ソリダリダッド』(スペイン語で「団結」の意)の創刊に加わり、「プロパガンダ運動」を行っている。1891年9月18日にベルギーのヘントで二作目の小説『エル・フィリブステリスモ』を出版した。
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