艦砲射撃 歴史

艦砲射撃

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/08/20 17:04 UTC 版)

歴史

日本の歴史上、初めて艦載砲による陸上施設への攻撃が行われたのは、戦国時代1561年永禄4年)の門司城の戦いで、ポルトガル船が大友義鎮からの支援要請により門司城に対して行った艦砲射撃である。1574年天正2年)、織田信長長島一向一揆討伐では織田艦隊が艦砲射撃を行い、一揆側のを打ち崩した。また、1590年(天正18年)、豊臣秀吉軍が小田原攻めで向かわせた水軍で、長宗我部氏家臣の池頼和を船大将とする「大黒丸」(大砲2門、鉄砲200丁)が、後北条氏の支城である下田城に対する海上攻撃に参加している[4]17世紀前後のヨーロッパ製小型大砲の威力は、厚さ10センチメートルの松材も貫通するとされる[5]事から、城壁でも防ぐのは難しい。

時代が下って19世紀1853年嘉永6年)のアメリカ海軍マシュー・ペリー提督の黒船来航以降となると、艦砲射撃対策が国防上の重要な課題となり、日本国内の各所に沿岸砲台が築かれた。有名なものの一つが、東京臨海副都心の地名に名を残すお台場である。しかし、当時の日本では、1863年文久3年)7月の薩英戦争では薩摩藩が、翌1864年元治元年)9月の下関戦争では長州藩が、いずれも艦砲射撃で大きな損害を受け、攘夷の不可能を悟った。これらの結末は、大砲の運用を想定した築城技術が未成熟だったこと、そして、大砲技術の違いに起因する。このように、海岸線が長い日本にとって、重量のある大砲を多数積み速く自由に移動できる軍艦による艦砲射撃は脅威であった。

しかし、さらに時代が下り20世紀にはいると、大砲の大型化・高威力化に伴い、艦載という縛りがある艦砲射撃はその価値を低下させた。日露戦争では、203高地を占領した日本陸軍が陸上からの28cm榴弾砲を中心とする砲撃により、旅順港にいたロシア帝国第1太平洋艦隊(旅順艦隊)に壊滅的な打撃を与えた。この事実もあり、移動できるメリットを差し引いても陸上砲台に軍艦では勝てないとして、艦砲射撃による陸上攻撃は戦術上の有効性を大幅に失った。軍艦と沿岸砲台とが互いの射距離内において撃ち合ったとしても、頑強な要塞で保護され、海面の軍艦をより高い位置から狙い撃ちでき、しかも、絶対に沈まない沿岸砲台が優位となった。

太平洋戦争では島嶼の争奪戦という性格上、多数の上陸作戦が日米双方によって行われ、それに伴い艦砲射撃も頻繁に行われた。しかし、この頃には戦艦といえども航空爆弾や航空雷撃に耐えられないことが明らかとなり、既に制空権無しでの艦砲射撃は無謀とされた。艦隊は、艦載砲の射程よりも遥か遠方から飛来する航空機に対する防空能力も持たなかった。実際、ミッドウェー海戦において、ミッドウェー島攻略を目指した日本海軍が先行させたのは空母機動部隊であり、戦艦主体の艦隊は遥か後方に配置されていた。アメリカ軍も、まず制空権を確保し、その後に艦砲射撃を行っていた。戦争後期の島嶼の戦いにおいても、アメリカ軍は各空域の制空権を手中にし、その後に徹底的な艦砲射撃を行った後に、海兵隊を上陸させた。こうして一旦制空権を得た後は、日本軍に対する艦砲射撃は有効であった。当時、陸上部隊が艦砲射撃に対抗しうる防御法はなく、日本軍は島嶼攻防戦での一方的敗北を喫した。しかし、日本軍守備隊が水際作戦ではなく持久戦を選択し強固な地下陣地を敷いていた硫黄島の場合、アメリカ軍の艦砲射撃は激烈ではあったものの[注 1]、その効果は十分とはいえなかった。また、戦争末期になるとアメリカ軍の制海権・制空権は日本列島にも達したため、日本本土の工業都市に対して室蘭艦砲射撃北海道)、釜石艦砲射撃岩手県)、日立艦砲射撃茨城県)、浜松艦砲射撃を実施した。なお、太平洋戦争の戦場では状況によっては上陸支援以外にも艦砲射撃が行われた。特に有名なのは、1942年に日本海軍によって行われたヘンダーソン飛行場への艦砲射撃である。


注釈

  1. ^ 硫黄島への艦砲射撃は特に激しかったことが知られており、その威力は島の沿岸部の地形を変えるほどであった

出典

  1. ^ 海軍砲術学校『艦砲射撃心得』p.5
  2. ^ a b c 軍事情報研究会「海兵遠征旅団の湾岸戦争&戦艦の艦砲射撃」『軍事研究』2012年7月号 pp.123-146 株式会社ジャパン・ミリタリー・レビュー
  3. ^ 読売新聞』朝刊2022年4月24日6-7面特集記事の戦況地図(3月24日時点)による。
  4. ^ 吉田龍司『長宗我部元親 土佐の風雲児 四国制覇への道』(新紀元社 2009年)p.197
  5. ^ ナショナルジオチャンネル『変わりゆく戦争兵器 「戦車」』番組内の実験結果
  6. ^ 1927年に海岸回りを鹿児島本線とし、旧ルートは肥薩線と改称。それまでは海岸回りが肥薩線・川内本線と呼ばれていた。
  7. ^ 佐々木冨泰・網谷りょういち『続事故の鉄道史』日本経済評論社、1999年2月10日、p.267頁。ISBN 978-4-8188-0819-5 





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