絹と明察 作品評価・研究

絹と明察

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/03/05 14:11 UTC 版)

作品評価・研究

発表時の高評価に比べ、『絹と明察』への本格的な論究は少ないが、副人物の岡野と作者・三島との関係性や、三島の他作品と比較類推する研究、実際の事件「近江絹糸争議」をモデルにした小説という観点からの考察、「日本」という問題から捉える論などが見られる[4]

野口武彦は、岡野の存在を、「作者のイロニカルな情念を共有するもっとも親密な分身」として捉え、三島が岡野を通じて、ヘルダーリン的な〈故郷〉は地上のどこにもない」という「まぎれもない空白感の告白」や「イロニイ的漂遊の疲れの訴え」をしているとし[19]、その「疲れた魂」が想う〈故郷へ帰りゆくこと〉〈帰郷〉は、三島が『林房雄論』で示した〈もつとも古くもつとも暗く、かつ無意識的に革新的であるところの、本質的原初的な“日本人のこころ”〉[20] に酷似し、三島が自らの〈根源への近接〉の結果、〈日本人の史的本質の到来〉にまで行きついたと解説している[19]

杉本和弘は、『絹と明察』の全体を、駒沢の物語と観察者・岡野との重層の構造と捉えて、駒沢の日本主義が時代遅れとなり敗北してゆく中、岡野が軽侮していた駒沢的な「日本」を最後に感受してしまうという、その交差する様に根源的な「日本」を浮かび上がらせている小説だと解説している[6]。また杉本は、三島が駒沢は〈天皇〉を象徴させていると語っていたという複数の証言がある点から(村松剛奥野健男など[21][22])、三島の天皇観との関係からの考察が必要だとしている[4]

佐渡谷重信は、シニカルな岡野の「政治的ロマン主義」に惹かれる三島の心情を読み取ることが肝心だとし、〈明察〉を代表する人物である岡野より、「東洋的な諦念とを至上の幸福」として死んだ駒沢の方が「人生における勝利者」であり、「おのずから読者の共感が駒沢に向けられるとき〈明察〉は駒沢の純粋性の中に輝いている。こうした二重構造の〈明察〉を描きえたことによってこの作品は傑作の一つに加えることができる」と解説している[7]

田中美代子は、『絹と明察』は、その後に流行する「“企業小説”のはしり」の趣があるとしながら、経済戦争で「西欧諸国がヒステリックな敵意をむき出しにする」駒沢流の日本型経営が〈勝つ〉理由を、「それは、北斎広重がその核心をつかんでいたように、苛酷な〈自然法〉を会得し、これを具現していたからであろう。それこそ彼我の自然観の相違、ひいては文明の相違であろう」と説明し[23]、その考え方は、作者・三島が「当時の理想だった近代個人主義の破産」をすでに見透かして予言していたと論考している[23]

松本徹は、三島が『林房雄論』『午後の曳航』『』などに見られる「虚無に抗して、〈思想〉でなく〈心情〉を追求する姿勢」が『絹と明察』にも通底しているとし、ハイデッカー思想に傾倒しヘルダーリンの詩を愛唱する「岡野の人物像」に着目して、『鏡子の家』の商社マンで出世の階段を駆け登った「杉本清一郎」と「岡野」が似通っていると分析している[24]。ただし岡野は一旦挫折を味わい、「裏社会へ回った清一郎」だと松本は説明し、そこから復活を果たすまでの岡野の「虚無主義を踏まえての行動は、怜悧でありながらひどく屈折し、の色」を帯びると解説している[24]

奥野健男は三島から、駒沢は天皇を象徴的に書いたものだと直接聞いたとし、「青春のほとばしりのように社長を信じ、あるいはだまされたと怒る若い女性労働者組合員たちは、戦時中の若い日本国民に違いない」と考察している[22]

竹松良明は、この奥野の見解に『絹と明察』を読み取る上で「極めて重要な示唆」が含まれているとし、「三島はこの作品を巧みに過去の時間で充填させ、それによって発現する物語の特異な窯変を狙ったと考えてよい」と述べ[25]、「駒沢は昭和天皇その人という以上に、天皇を奉じて生き死にした戦時下の国民感情の総和を表象する存在として描かれている」と考察している[25]。そして竹松は、「駒沢の死による岡野の喪失感が、取りも直さず行き暮れた精神が最後に回帰すべき根源的な〈故郷〉への逢着を意味すること」に、「天皇制に関わる国民感情の文学的形象化という一つの大胆な試みの結語がある」とし[25]、逆に、岡野と近似していたはずの菊乃が、駒沢の女になり〈幸福〉を得て〈使い古したみたいな誠実だけ〉を露わにし、いぎたないをかき、最後に駒沢から嫌われることについては以下のように論考している[25]

菊乃の転落の遠因は、その生半可な文学好きに求めることが可能であり、それは作家的自覚の頽落を意味している。ついに駒沢の女となることで、永年の習い性となっていた身じまいの確かさも忘れて色褪せていく菊乃の姿からは、天皇制に関わる戦時下の国民感情への無節操な馴れ合い、ほとんど淫らな感のあるその野合の様相が想起されるはずである。このようにして、岡野と菊乃との対照形における各々の明暗とその振幅のうちに、いかにも三島作品らしい迷彩の中から一つの確固たる紋様が浮かび上がってくる。 — 竹松良明「『絹と明察』論―天皇制にかかわる形象化をめぐって」[25]

柴田勝二は、『絹と明察』同様に、『鏡子の家』『美しい星』『午後の曳航』がいずれも、「一家ないしそれに見立てられる共同体の長たろうとし、しかもそれに失敗する人物」が描かれ、これらが皆、三島自身が父親になった以降の作品だという背景はあるが、実のところ血縁関係の息子と父親の物語はなく、三島の意図には、〈男性的権威の一番支配的なもの〉という意味での〈父親〉の滅びの姿を書くことにあったと説明しながら、いずれも「天皇」を寓意的に描いている作品だと解説している[26]

そして、『午後の曳航』の龍二は〈〉に象徴される「ロマン的世界」を捨て、世俗の現実世界の一角に「登録」されたゆえに、ロマン的世界に執着する少年たちにより殺され、龍二の変容は「〈〉から〈人間〉に移行した戦後の天皇」と照応すると柴田は指摘し[26]、『絹と明察』の駒沢は、資本主義の論理で社員を支配しているにもかかわらず、〈父親的〉に振る舞うという「欺瞞」を岡野によって暴かれ、その軌跡に込められている寓意には、「超越性を帯びた家長が存在しえない状況」が描かれ、駒沢も「戦後の天皇への相対化」だと考察しつつ[26]、これ以降の作品では、「超越性を帯びた存在は現実世界の彼岸にしか生きえないこと」が、三島の中でより明確化されていくこととなり、「そこから三島独自の理念のなかで超越的な彼岸性を帯びた天皇の像が構築されていく」と柴田は論考している[26]


  1. ^ 井上隆史「作品目録――昭和39年」(42巻 2005, pp. 433–437)
  2. ^ a b 山中剛史「著書目録――目次」(42巻 2005, pp. 540–561)
  3. ^ a b 「解題――絹と明察」(10巻 2001
  4. ^ a b c d e 杉本和弘「絹と明察」(事典 2000, pp. 83–86)
  5. ^ a b c d e 「著者と一時間(『絹と明察』)」(朝日新聞 1964年11月23日号)。33巻 2003, pp. 213–214に所収
  6. ^ a b 杉本 1994
  7. ^ a b 佐渡谷重信「絹と明察」(旧事典 1976, pp. 110–111)
  8. ^ a b c d 磯田光一「時評(文芸) 家父長倫理の挫折――『絹と明察』について」(図書新聞 1964年9月26日号)。事典 2000, p. 84、『磯田光一著作集1』(小沢書店、1990年)、磯田 1979, pp. 98–105に所収
  9. ^ 村松剛「文芸月評・戦後の知識人とは何か」( 1964年11月号)。事典 2000, p. 84
  10. ^ 奥野健男「読書・愚かな人物を芸術的に浮彫り」(東京新聞夕刊 1964年11月4日号)。事典 2000, p. 84
  11. ^ 村松剛「“日本主義”と取り組む」(サンデー毎日 1964年11月29日号)。事典 2000, p. 84
  12. ^ 伊藤整「現代に生きる“古い心”」(毎日新聞 1965年1月1日号)。事典 2000, p. 84
  13. ^ 小田切秀雄・本多秋五・寺田透「創作合評」(群像 1964年11月号)。事典 2000, p. 84
  14. ^ 小田切秀雄「批評におけるリアリズム―『絹と明察』をめぐる浪漫派の批評について」(文學 1964年12月号)。事典 2000, pp. 84–85
  15. ^ 高橋和巳「描破された資本家像」(日本読書新聞 1964年11月16日号)。事典 2000, p. 84
  16. ^ 山本健吉「“現代の英雄”を描く」(週刊読書人 1964年11月30日号)。事典 2000, p. 84
  17. ^ 佐伯彰一「ユニークな人物創造」(読売新聞夕刊 1964年12月3日号)。事典 2000, p. 84
  18. ^ 森川達也「人間の愚劣への挑戦」(図書新聞 1964年11月29日号)。事典 2000, p. 84
  19. ^ a b 「第八章 永劫回帰と輪廻――『宴のあと』その他――」(野口 1968, pp. 193–220)
  20. ^ 林房雄論」(新潮 1963年2月号)。『林房雄論』(新潮社、1963年8月)。『作家論』(中央公論社、1970年)。作家論 1974, pp. 123–131、32巻 2003, pp. 337–402に所収
  21. ^ 「III 死の栄光――『父』殺しと『父』の発見」(村松 1990, pp. 325–347)
  22. ^ a b 奥野 2000(1993年2月のハードカバー版に記載)。論集I 2001, pp. 261–262、柴田 2012, p. 131に抜粋掲載
  23. ^ a b 田中美代子「解説」(文庫 1987, pp. 306–312)
  24. ^ a b 「第十回 神への裏階段」(徹 2010, pp. 132–144)
  25. ^ a b c d e 竹松良明「『絹と明察』論―天皇制にかかわる形象化をめぐって」(論集I 2001, pp. 261–271)
  26. ^ a b c d 「第四章 不在の家長たち――『鏡子の家』と〈天皇〉の表象」(柴田 2012, pp. 99–132)
  27. ^ ドナルド・キーンへの書簡」(昭和39年10月29日付)。ドナルド書簡 2001, pp. 134–136、38巻 2004, pp. 408–409


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