水戸泉政人 来歴

水戸泉政人

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/05 23:50 UTC 版)

来歴

新入幕まで

幼少の頃に父を亡くし弟の昭二(元十両13・梅の里)とともに母1人の手で育てられた。茨城県水戸市立飯富中学時代には母の勧めで柔道に打ち込み初段になる腕前の持ち主だった。1977年の暮に力士のサイン会に行った。本人は貴ノ花のサイン会だと思っていたそうだったが実は高見山富士櫻のサイン会だった。この時髙見山に「大きねーお相撲さんにならないかい」と勧誘される。数日後には高砂親方からも勧誘され、入手困難だった29cmの靴をもらって入門を決めた。水戸泉の四股名は出身地の水戸、本名小泉、そして「枯れることなき泉のごとく出世を」という願いを込めて髙砂が命名した。

部屋の同期生に長岡(のち大関・4代朝潮幕下付出)がおり、彼から手ごろな稽古相手と目をつけられていた。7歳も年上で、尚且つ二度の学生横綱を獲得した朝潮との稽古は中学卒業間もない少年には辛いものだったが、これが後々の財産になった。朝潮とのエピソードは数多く残り、洗濯して干していた朝潮のパンツを神社に置き忘れて叱られた逸話などが伝わっている。1979年9月ごろ挫折に耐えかね相撲に見切りをつけようとした朝潮に対し、「今日稽古はどうしたんですか?」とさりげなく声を掛けて立ち直らせたとも伝わっている。

新十両の場所の8日目から付人の奄美富士の「勝ち星に恵まれないときはせめて塩だけでも景気よくまいたらどうですか」という進言により、大量の塩を撒くようになった。初めの頃は1回目から大きく撒いていたが、後に制限時間いっぱいの時にのみ大きく撒くようになった。1回にとる塩の量は何と600gにもなったという[1]ロンドン公演で「ソルトシェイカー」[2] と紹介され、日本でも「水戸泉といえば豪快な塩まき」として定着した。同時代で同様に大量の塩を撒く力士には朝乃若がおり、対戦した際には豪快に撒き上げる水戸泉と叩きつける朝乃若の両者の塩撒きに観客が沸いた。

塩を撒いた後に顔、まわしを強く叩いて気合を入れる仕草も特徴である。これはいつごろからか無意識に始めていたもので、ある時飲み屋で居合わせたファンから指摘されて自分でも初めて気づいたという。イベントなどでやってみせてくれと頼まれることも多かったが、意識してやろうとするとうまくいかず苦労したと語っている。

一方で、制限時間まで立つ気がない仕切りを繰り返していたため[注釈 1]一部の好角家に批判されることも多かった。貴闘力浪ノ花ら時間前でも度々立つ力士との対戦で興をそぐことも多かった。

新入幕〜三役定着

1984年9月場所新入幕、入幕3場所目で11勝し初の三賞である敢闘賞。しかし1985年5月場所前に交通事故を起こして負傷し、2場所連続負け越して十両に陥落。この事故がきっかけで現役力士の自動車運転が禁止され、現在に至る[注釈 2]

1986年3月場所再入幕、5日目から11連勝で12勝3敗で敢闘賞、5月場所は負け越したが7月は10勝5敗、9月場所は関脇になった。しかしこの場所大乃国との対戦で左膝そく側副靭帯を断裂する重傷を負い、3場所連続休場で十両に落ちた。1988年3月場所再入幕。9月場所には小結で1横綱1大関に勝ち10勝5敗で殊勲賞。当然大きな飛躍が期待されたがまたしても大乃国との対戦で左足首に負傷。十両には落ちなかったがこれら2度の負傷には最後まで苦しむ事になった。その後は1989年九州場所で、1横綱1大関に勝ち11勝し5回目の敢闘賞など、平幕上位から関脇での活躍が続くが、しかし1990年後半は低迷。

特に1986年9月場所での負傷は、テレビ中継でも左膝が腫れているのが分かるような重傷を負い、医師からも「相撲はもう諦めるしかない」と言われたほどで、はじめてギプスをはずされて自分の青ざめた膝を見た時には、絶望的な思いになったという。一時期は引退も考えたが、療養に訪れたリハビリ施設で自分より若くして重度の障害を負った人たちの前向きな姿に励まされたのと、やはり「親孝行したい」という思いとで土俵に上がり続けた。

その後1991年3月場所から7場所連続で勝ち越し。うち6場所が8勝7敗で、さらにそのうち4場所が7勝7敗で千秋楽に勝ち越しをかけるという復調というには厳しい星取りだったが、ともかくも三役復帰を果たす。1992年3月場所には、千秋楽2敗で優勝を争っていた小結栃乃和歌を倒して同部屋の大関小錦の3回目の優勝をアシストした。

つづく1992年5月場所は10日目まで7勝3敗と好調だったが、腰痛の悪化の影響でその後5連敗して7勝8敗と8場所ぶりに負け越した。

史上24人目の平幕優勝者

続く1992年7月場所、西前頭筆頭に下がった水戸泉は、場所前のヨーロッパ遠征を腰痛により休場したことで、ハードスケジュールと時差ボケに苦しんで調整不足のまま場所を迎えたほとんどの力士と異なり好調の状態で土俵に上がった。場所前に新大関の曙が稽古中に左足小指を痛めて全休したのもチャンスであった[3]。幕内昇進後初日から自身初の7連勝の快進撃で白星をどんどん積み重ねていく。中日で小結・貴花田(当時、のち貴乃花)に初黒星、10日目に大関・霧島に敗れ2敗はしたものの、それ以降も優勝争いの単独首位を走っていた。場所中、好成績を目当てとした意図的なヨーロッパ巡業への不参加ではないかという批判が集中したが本人は「ホントは、オレだってヨーロッパに行きたかったんだ」と本当に怪我の影響で巡業を全休したのだと強調[4]。終盤戦、13日目の関脇・琴錦戦では立合いの頭突き一発で突き落とし、14日目には前頭12枚目の貴ノ浪にも上手投げで勝って12勝2敗とした[3]。その貴ノ浪との相撲では、若さに任せた相手の寄りをギリギリで残し、さらに左外掛けにくる貴ノ浪を吊り上げるような上手投げで逆転。その後10勝3敗と1差で追っていた小結の武蔵丸、大関の小錦と霧島の3力士全員が負けて、その瞬間水戸泉初めての平幕優勝が決まった[5]。水戸泉は支度部屋で、14日目で優勝が決まる可能性があったため待機はしていたが、まさかその3敗陣の3人が総崩れとは自身全く想像もしなかったため、3敗勢最後の1人である霧島が負けた瞬間には思わず「ウソーっ!?」と驚いた後、弟の梅の里と二人して抱き合って涙ぐんだ[3]。その嬉し泣きぶりは当時を知る記者の感覚では、それまで見たことが無いような派手な嬉し泣きであったという[4]。奇しくも当時の高砂親方である富士錦が現役時代、1964年に平幕優勝した時と同じ名古屋の土俵だった。千秋楽も勝って13勝2敗の成績を収めた。なお平幕優勝者は、1909年に優勝制度が確立して以降水戸泉が史上24人目であるが、前年の1991年7月場所に琴富士、同年9月場所に琴錦[注釈 3]、同1992年1月場所には貴花田と、わずか1年の間に4人もの平幕優勝者が出るという非常に珍しい出来事となった。

優勝パレードでは当時大関で、優勝を争った小錦が優勝旗の旗手を務めた。大関力士が下位の力士の優勝で旗手をつとめることは珍しく、小錦は一部から「天下の大関が、平幕力士の旗手をするとは何事か」と批判を浴びたという。しかし高砂部屋入門時から小錦にとって水戸泉は共に下積み生活を送った間柄でよき相談相手で兄貴分でもあり、また入門時から長く稽古相手をしていた仲でもあった。小錦は「僕の3回の優勝の他、先場所(1992年5月場所)ではの旗手までさせてしまった。水戸関は僕の恩人だから、誰がなんと言おうと僕が旗を持つ」「これまでオレが優勝した3回とも水戸関が旗手をやってくれた。これはホンのお返しさ」と小錦が「恩返し」の意味で自分から願い出たことだった、という[4][注釈 4]。小錦は4敗を喫した際、水戸泉の優勝を確信したとも取れるような表情を花道で浮かべていた。

優勝後~現役引退

翌1992年9月場所は西張出関脇に昇進、ここでも8勝7敗と勝ち越して7月場所の優勝がまぐれではなかったことを印象付けた。1992年11月場所は成績次第では大関取りだったが、またしても左足の負傷で1勝12敗2休に終わり平幕に下がる。1993年より、「政人では政治家みたいで力士としてしっくりこない」と、四股名を水戸泉眞幸と改名する。しかし膝の故障が多発してそれ以降は三役に復帰できなかった。1999年5月場所で十両に陥落し、その後幕内に戻ることはなかった。その後もしばらく現役を続け、蔵前国技館で幕内を務めた力士の最後の生き残りとして38歳まで現役を続けたが、2000年9月場所を最後に引退、年寄・錦戸を襲名した。幕内在位79場所で休場が99回は、横綱・大関を除けば当時過去最多の休場数[注釈 5]であったため、「怪我のデパート」などと言われた。断髪式の際には470人もの参列者が鋏を入れたが、雑誌『相撲』によるとこれは史上最多の人数とされている。なお近年では2015年1月31日に国技館で行われた若荒雄の断髪式で450人の参列者が鋏を入れた記録が残っている[6]

引退後

協会内では長く審判委員を務めている。現役時代の1998年には6代高砂と養子縁組し、一時は高砂部屋の後継者に指名されたが、婚約破棄問題で辞退した[注釈 6][7]2002年に高砂部屋から分家独立して錦戸部屋を創設した。部屋の玄関の横には本人の優勝額が掲げられている。

2014年4月には協会役員以外の親方で構成する年寄会の会長に選出された。会長就任に当たり、形式的になっていた総会の在り方を見直す意向を示し「連絡網をしっかりして、何かあった時にすぐ集まれるようにしたい。相撲協会のために皆さんの意見を取り入れながら、いい年寄会にしていきたい」と表明した[8]

2016年2月12日、22歳年下のソプラノ歌手の小野友葵子と結婚したことを発表した[9]

同年10月28日、『爆報! THE フライデー』(TBS)に出演し、折から一部週刊誌で「親方への反発で弟子が相次いでやめた」と報じられたことに対して「たまたま(弟子の)年齢もありましたし、怪我とか病気で辞めていったのが重なった」と説明。そして、弟子の人数が減って3人しかいなくなったことで収入源である相撲協会からの支給金が減少し、毎月赤字で厳しい状況であることを明かした。さらに自身が末期の腎不全に侵され長時間の人工透析をしており、そのために稽古に出られない日もあったことも明かした。妻も週刊誌で豪遊生活を送っていると報じられ、女将失格とバッシングを受けたが、同番組内では朝7時から相撲部屋の家事を済ませ、稽古に出られない親方の代わりに申し合い稽古の番数をグラフにし、弟子たちの食事を作ったり、弟子たちを居酒屋に誘い出し悩みを聞いたりと女将業をこなす場面が紹介された[10]

2016年8月に審判委員を退任したが、2018年3月28日の職務分掌にて役員待遇委員に昇格し、審判部副部長に就任した[11]

2019年3月8日、体調不良のため、3月場所の休場が報じられ、高田川副部長が全15日間の審判長を務める予定となった[12]

2020年8月6日、弟子の極芯道阿炎に同伴して相撲協会の新型コロナウイルス対応ガイドライン違反行為を行ったため、譴責処分を受けた[13]

2021年3月場所は4日目から体調不良で休場。芝田山広報部長は「発熱とかはないけど、きょうから錦戸親方が休場する。あんまり体が良くないから審判長も交代でやってたけど」と話した[14]

2022年1月場所初日(9日)に妻が新型コロナウイルスに感染していることが判明し、翌日(10日)に自身の感染も判明した。所属力士4人とともに1月場所休場となり[15]、10代錦戸は感染判明後に体調が悪化。高熱が出たことと基礎疾患があったことから、保健所指定の隔離病棟に入院して治療を受け、14日目(22日)に熱が下がったため退院したことをブログで報告した[16]

2022年3月30日に発表された職務分掌により、役員待遇委員に任命されたことが明らかとなった[17]


注釈

  1. ^ 当時すでに時間いっぱいまで立とうとしない力士が大半だったが、水戸泉の場合はそれがあまりに露骨だった。
  2. ^ ただし免許の取得と更新は禁止されていない。
  3. ^ その後琴錦は1998年11月場所でも大相撲史上初の2回目の平幕優勝を達成
  4. ^ それから20年後の2012年5月場所、モンゴル出身の旭天鵬が平幕優勝を果たした際の優勝パレードでは、同モンゴルの後輩にあたる横綱白鵬が自ら旗手を務めていた。
  5. ^ 2009年3月場所千秋楽を以て幕内100休目を記録した若の里が更新した。若の里は幕内124休まで記録を伸ばし引退した。
  6. ^ 相手の女性は伊藤史生の前妻であり、伊藤と離婚した後は結婚詐欺まがいの挙動で一時期ワイドショーをにぎわせた。また、錦戸と婚約破棄した後に追風海と結婚(後に離婚)し、追風海はこれが問題となって師匠に破門される形で協会を去った(詳細は伊藤史生の項を参照されたい)。
  7. ^ 過去には1991年11月場所12日目、現役中の旭道山が泥酔状態で土俵に上がった男性客を、抱えながら土俵外へ下ろさせる事件があった
  8. ^ 顔面裂創・外鼻裂創・頭部打撲により初日から休場、9日目から再出場
  9. ^ 左膝内側側副靱帯断裂・左脛骨顆間隆起骨折・半月板剥離骨折により4日目から途中休場
  10. ^ a b c d 公傷
  11. ^ 左膝内側側副靱帯断裂・左膝半月板剥離骨折・左脛骨顆間隆起骨折。
  12. ^ 左足首関節捻挫及び左足首関節靱帯損傷により2日目から途中休場
  13. ^ 左膝半月板損傷により11日目から途中休場
  14. ^ 左踵及び左足首関節捻挫により11日目から途中休場、14日目から再出場
  15. ^ 右膝関節骨折により14日目から途中休場

出典

  1. ^ 週刊女性2015年12月22日号
  2. ^ 角界「異名」列伝 ウルフの時代 時事ドットコム
  3. ^ a b c 『大相撲ジャーナル』2017年8月号 p44-45
  4. ^ a b c 『大相撲ジャーナル』2018年9月号 p.101
  5. ^ ベースボールマガジン社『大相撲名門列伝シリーズ(3) 高砂部屋』p43
  6. ^ 2015年3月号(春場所展望号)28頁
  7. ^ モンスター"プロ彼女"!? 数多くの力士・プロ野球選手を巻き込んだ結婚詐欺騒動
    モンスター"プロ彼女"!? 数多くの力士・プロ野球選手を巻き込んだ結婚詐欺騒動 exciteニュース 2016年5月27日 00時01分  
  8. ^ “元関脇水戸泉、新会長就任「いい年寄会にしていきたい」”. サンケイスポーツ. (2014年4月3日). http://www.sanspo.com/sports/news/20140403/sum14040320300003-n1.html 2014年4月9日閲覧。 
  9. ^ 元水戸泉の錦戸親方が結婚! お相手は22歳下の美人ソプラノ歌手 スポーツニッポン 2016年2月12日閲覧
  10. ^ 元関脇水戸泉、相撲部屋崩壊危機報道を語る RBBTODAY 2016年10月29日(土) 10時12分
  11. ^ “花形の審判部一新、元益荒雄の阿武松親方が部長に”. 日刊スポーツ. (2018年3月28日). https://www.nikkansports.com/battle/sumo/news/201803280000534.html 2018年3月30日閲覧。 
  12. ^ INC, SANKEI DIGITAL (2019年3月8日). “錦戸審判部副部長、体調不良で休場 大相撲春場所”. 産経ニュース. 2019年3月8日閲覧。
  13. ^ 阿炎の引退届を受理せず…今後迷惑かけたら即引退 - 大相撲 : 日刊スポーツ”. nikkansports.com(2020年8月6日). 2020年8月6日閲覧。
  14. ^ 錦戸審判副部長が休場 発熱はなしも体調不良が理由 日刊スポーツ 2021年3月17日15時49分 (2021年3月17日閲覧)
  15. ^ INC, SANKEI DIGITAL (2022年1月10日). “錦戸親方が新型コロナ感染 元水戸泉、部屋は全員全休”. 産経ニュース. 2022年1月22日閲覧。
  16. ^ 『シンドイのはわかっていたが、こんなにシンドイとは思わなかった、、、』(2022年1月22日)”. 錦戸眞幸(元水戸泉)オフィシャルブログ「水戸泉メモリー」Powered by Ameba. 2022年1月22日閲覧。
  17. ^ なぜ陸奥親方が事業部長、九重親方が役員待遇?! 日本相撲協会の親方職務を読み解く 日刊スポーツ 2022年4月6日6時0分 (2022年4月6日閲覧)
  18. ^ 元関脇水戸泉の錦戸親方は「絵を描くこと」競わず自分なりに楽しめることが魅力/親方衆の癒やし 日刊スポーツ 2023年9月8日5時0分 (2023年9月9日閲覧)
  19. ^ 照ノ富士、奇跡の復活幕尻Vも…薄れる「番付」の重み (2/2ページ) zakzak 2020.8.4 (2020年8月6日閲覧)






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