月澹荘綺譚 月澹荘綺譚の概要

月澹荘綺譚

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/08/21 06:45 UTC 版)

月澹荘綺譚
作者 三島由紀夫
日本
言語 日本語
ジャンル 短編小説
発表形態 雑誌掲載
初出情報
初出文藝春秋1965年1月号
刊本情報
収録三熊野詣
出版元 新潮社
出版年月日 1965年7月30日
装幀 観世宗家所蔵意匠
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1965年(昭和40年)、雑誌『文藝春秋』1月号に掲載された[3][4]。単行本は同年7月30日に新潮社より刊行の『三熊野詣』に収録された[5][4]。文庫版としては、1978年(昭和53年)11月27日に刊行の新潮文庫の『岬にての物語』に収録された[5][4]。その後2000年(平成12年)、鳥影社の雑誌『季刊文科』11月号にも再掲載された[6]

執筆背景

三島由紀夫は本作が収録された『三熊野詣』のあとがきで次のように述べている[7]

私は自分の疲労を、無力感と、酸え腐れた心情のデカダンスと、そのすべてをこの四篇(三熊野詣、月澹荘綺譚、孔雀、朝の純愛)にこめた。四篇とも、いづれも過去現在が先鋭に対立せしめられてをり、過去は輝き、現在は死灰に化してゐる。(中略)
しかし自分の哲学を裏切つて、妙な作品群が生れてしまふのも、作家といふ仕事のふしぎである。自作ながら、私はこれらの作品に、いひしれぬ不吉なものを感じる。ずいぶん自分のことを棚に上げた言ひ方であるが、私にかういふ作品群を書かせたのは、時代精神のどんな微妙な部分であるのか? ミーディアムはしばしば自分に憑いた神の顔を知らないのである。 — 三島由紀夫「あとがき」(『三熊野詣』)[7]

また、この「あとがき」を書いた同時期に三島は、〈私は「目」だけの人間になるのは、死んでもいやだ。それは化物になることだと思ふ。それでも私が、生来、視覚型の人間であることは、自ら認めざるをえない〉と述べ、『月澹荘綺譚』の登場人物のような「視覚型の人間」への嫌悪を示している[8]

あらすじ

去年の夏、「私」は伊豆半島南端の下田に滞在中、城山の岬をめぐり、かつて明治の元勲・大澤照久侯爵が建てた「月澹荘」という名の別荘にまつわる40年前の話を一人の老人から聞いた。その老人・勝造は、漁師の父が別荘番をしていた関係で、大澤照久侯爵の嫡男・照茂と幼友達であった。照茂は侯爵が亡くなると家督を継ぎ、大正13年(1924年)に20歳で結婚した。その夏、新婚夫婦は月澹荘を訪れたが、翌年の秋に別荘は火事で焼失した。無人の別荘の出火の原因は不明だった。それを機に夫人は別荘の土地を下田へ寄附する旨の手紙を勝造に送った。その手紙の送り主が主人の照茂でなかったのは、その年すでに照茂はこの世にいなかったからだった。

新婚の照茂夫人は、初めて月澹荘を訪れたとき、庭で誰かの視線を常に感じていた。照茂が死んだ翌年、夫人は一人で月澹荘を訪れ、夫がなぜあんなふうに死んだのか、何か秘密の事情を隠しているらしい勝造に問うた。勝造は2年前の出来事を語りだした。

グミの実

それは照茂が結婚する前年、照茂が19歳、勝造が18歳の夏だった。城山を散策中、二人は白痴の娘・君江が赤いグミの実を摘んでいるのを見かけた。照茂は君江の腰をじっと見つめ出し、勝造に君江を強姦するように命令した。殿様の言うことに忠実で従うことしかできなかった勝造は、しゃにむに目的を遂げようと君江を襲った。その間、照茂はじっと冷酷な感情のない澄んだ目で、泣いて咽ぶ君江の顔を至近距離で水棲動物の生態を観察するかのように見ていた。君江はその視線から逃れようと必死だった。勝造の秘密の告白を聞いた夫人は、なぜ君江が勝造でなく照茂を憎んだのか納得した。そして結婚以来一度も夫婦の契りがなかったこと、夫はただじっとすみずみまで熱心に見るだけだったことを勝造に告げた。

照茂は夫人と月澹荘を訪れた夏、岬近くの茜島という小島へスケッチに行ったまま、崖で死んでいたのだった。頭を砕かれ海へずり落ちそうになっていた。勝造はそれを一目見て、君江が殺したのだとすぐ解った。照茂の両眼はえぐられ、そのうつろには夏グミの実がきっしり詰め込んであった。

登場人物

歴史や漢詩七言絶句などに造詣が深い研究者。去年夏に下田に滞在中、以前から興味を持っていた名前の月澹荘を探す。月澹荘は、かつてその岬の城山に明治の元勲・大澤照久侯爵の建てた別荘で、名前の由来は呉子華の「月澹ク煙沈ミ暑気清シ」という七言絶句から来ている。
照茂
元勲・大澤照久侯爵の嫡男。無口で敏活でなく、ただ目だけが潤んで大きく、物をじっと見て観察することしかしない。父の死後、家督を継ぎ、20歳で結婚。父は下級武士の出身であったが、一代で貴顕となった。
勝造
照茂の幼友達だった老人。を荒く的確に使い作った面のような顔。単純な目鼻立ちなりに深く皺が刻まれ、黒檀の光沢を放っている。勝造の父親(漁師)は月澹荘の別荘番をしていた。勝造は幼少・青年時代、1歳年上の照茂の遊び相手となり、照茂の命令には忠実だった。父の死後、引継いで別荘番となる。
若夫人
照茂の美しい若妻。高貴な夫人。大正13年(1924年)に結婚し、その夏に月澹荘を訪れる。
君江
白痴の娘。子供らに石をぶつけられても怒らず、人に害は加えない性質だった。

  1. ^ 東雅夫「幽界(ゾルレン)と顕界(ザイン)と」(怪談傑作選 2007, pp. 375–382)
  2. ^ a b 渡辺広士「解説」(岬・文庫 1978, pp. 325–330)
  3. ^ 井上隆史「作品目録――昭和40年」(42巻 2005, pp. 438–440)
  4. ^ a b c d 柳瀬善治「月澹荘綺譚」(事典 2000, pp. 112–114)
  5. ^ a b 山中剛史「著書目録――目次」(42巻 2005, pp. 540–561)
  6. ^ 田中美代子「解題――月澹荘綺譚」(20巻 2002, p. 802)
  7. ^ a b 「あとがき」(『三熊野詣新潮社、1965年7月)。33巻 2003, pp. 472–473に所収
  8. ^ 「あとがき」(『目――ある芸術断想集英社、1965年8月)。芸術断想 1995, pp. 99–101、33巻 2003, pp. 488–489
  9. ^ 山本健吉「文芸時評」(読売新聞 1965年12月25日号)。山本時評 1969, p. 332に所収。旧事典 1976, p. 139、事典 2000, p. 113
  10. ^ a b 江藤淳「文芸時評」(朝日新聞 1964年12月23日号)。江藤 1989, pp. 244–247に所収。旧事典 1976, p. 139、事典 2000, p. 113
  11. ^ 磯田光一「『三熊野詣』書評」(日本読書新聞 1965年9月20日号)。『磯田光一著作集1』(小沢書店、1990年6月)所収。事典 2000, p. 113
  12. ^ 柳瀬 1996事典 2000, pp. 113–114


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