密教 漢字圏の密教

密教

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/04 15:35 UTC 版)

漢字圏の密教

中国においては、南北朝時代から、数は限られているものの初期の密教経典が翻訳され、紹介されていた。3世紀には支謙により『華積陀羅尼神呪経』が翻訳されるなど、西域方面から伝来した仏典の中に初期の密呪経典が含まれていた。東晋の時代には格義仏教が盛んであったが、同時に降雨止雨経典などの呪術的な密教教典も伝訳された。これらは除災や治病といった現世利益を仏教に対し求める民衆の期待と呼応していたとも考えられる。その後、代に入り、インドから来朝した善無畏や中国人の弟子の一行が『大日経』の翻訳を行い、さらにインド僧の金剛智と弟子の不空(諸説あるが西域出身のインド系帰化人であったと言われる)が『金剛頂経』系密教を紹介することで、インドの代表的な純密経典が初めて伝えられた。こうして、天台教学をはじめとした中国人による仏教思想が大成した時代背景において、それ以前の現世利益的密教とは異なった、成仏を意図したインド中期密教が本格的にもたらされ、その基礎の上に中国の密教が確立し受容されるに至った。仏教を護国思想と結びつけた不空は唐の王室の帰依を得、さまざまな力を得て、中国密教の最盛期をもたらすことになった。

その後、密教は武宗が大規模に行った会昌の廃仏の打撃を被り、円仁らが中国に留学した頃は、相応の教勢を保っていたとみられるが、唐朝の衰退とともに教勢も弱まっていった。北宋になって密教も復興し、当時の訳経僧であった施護中国語版はいくつかの後期密教経典も翻訳したが、見るべき発展はなかった[33]。以後、唐密教の伝統は歴史の表舞台からほぼ消失し、中国密教は次第に道教等と混淆しながら民間信仰化していったともみられる[33]。その一方で西夏でも密教が行われた。殊に西夏では漢伝の密教とチベット仏教が混ざり合っていたことが残された史料から窺われる[34]

密教研究者の頼富本宏は唐密教衰退後の中国密教を後期中国密教と呼び、以下の形態の密教が存在したことを想定している[35]

  • 宋代に漢訳された後期密教経典に基づく密教。この形態の密教が中国で実際に広く行われた形跡はないとされる。
  • 密教の民間信仰化。一例として台湾や東南アジアの華人社会に今も伝わる瑜伽焔口という施餓鬼法要が挙げられる。
  • 元朝や清朝において統治者が庇護・奨励し、主に上層階級に信仰されたチベット仏教における密教。

中国密教(唐密)における明代清代の資料の幾つかは、『卍蔵経』や『卍続蔵経』にも収められている。

  • 『准胝懺願儀梵本』、呉門聖恩寺沙門弘壁
  • 『准提集説』、瑞安林太史任増志
  • 『准提簡易持誦法』、四明周邦台所輯
  • 『准胝儀軌』、項謙
  • 『大准提菩薩焚修悉地懺悔玄文』、夏道人

唐代に盛んであった中期密教を唐密宗(唐密:タンミィ)または漢伝密教(漢密)と呼ぶ。清代以降の浄土教の台頭、現世利益や呪術の面でライバルであった道教に押されて中国では衰退・途絶し、日本密教(東密)の逆輸入も行われた[36]上海市静安寺にみられるように日本の真言宗(東密)との交流を通じて唐密宗の復興を試みる新しい動きもある。

日本の密教

密教の伝来

日本で密教が公の場において初めて紹介されたのは、から帰国した伝教大師最澄によるものであった。当時の皇族や貴族は、最澄が本格的に修学した天台教学よりも、現世利益を重視する密教、来世での極楽浄土への生まれ変わりを約束する浄土教念仏)に関心を寄せたが、天台教学が主であった最澄は密教を本格的に修学していたわけではなかった。

本格的に日本へ伝来されることになるのは、唐における密教の拠点であった青龍寺において密教を本格的に修学した空海(弘法大師)が806年に日本に帰国してからであった。日本に伝わったのは中期密教で、唐代には儒教の影響も強かったので後期密教はタントラ教が性道徳に反するとして唐では受け入れられなかったという説もある[37]

天台宗の豪潮律師[注 7]長崎出島で中国僧から直接、中国密教と出家戒や、大系的な戒律である小乘戒・大乘戒・三昧耶戒を授かり、時の光格天皇の師として尊敬を集めるとともに、南海の龍と呼ばれた尾張・大納言齊朝候の庇護を受け、尾張と江戸で「準提法」(准胝観音法)を広めて多くの弟子を養成した。豪潮の残した資料の一つ『準提懺摩法 全』は明代の中国の資料と内容が一致する。この時期、戒律復興運動で有名な人物としては、如法真言律を提唱し、生涯において三十数万人の僧俗に灌頂と授戒を行なった霊雲寺浄厳覚彦と、正法律を唱えた慈雲が挙げられる。

密教の宗派

日本の密教は霊山を神聖視する在来の山岳信仰とも結びつき、修験道など後の神仏習合の主体ともなる。熊野で修行中の山伏

日本密教の伝統的な宗派としては、空海が唐の青龍寺恵果に受法して請来し、真言密教として体系付けた真言宗即身成仏鎮護国家を二大テーゼとしている)と、最澄によって創始され、円仁、円珍、安然らによって完成された日本天台宗の継承する密教に分類される。真言宗が密教専修であるのに対し、天台宗は円(法華経)・密(密教)・禅(止観)・戒(大乗戒)の四宗を兼ねるとか、八宗兼学の教えと言われる。天台宗における基本的なスタンスは、密教と顕教である法華経を同等の立場に置く「顕密一致」であり、この点で真言宗とは異なる。真言宗は東密とも呼ばれ、日本天台宗の密教は台密とも呼ばれる。東密とは「東寺(教王護国寺)の密教」、台密は「天台宗の密教」の意味である。この体系的に請来されて完成された東密、台密を純密(じゅんみつ)というのに対し、純密以前に断片的に請来され信仰された奈良時代に見る密教を雑密(ぞうみつ)という。

日本の密教は、空海、最澄以前から存在した霊山を神聖視する在来の山岳信仰とも結びつき、修験道などの神仏習合の主体ともなった。各地の寺院権現に伝わる山岳曼荼羅には、それらや浄土信仰の影響が認められる。








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