中村橋派出所警官殺害事件 概要

中村橋派出所警官殺害事件

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/10/08 20:14 UTC 版)

概要

中村橋交番(2020年)

陸上自衛官の男S(事件当時20歳)が銀行強盗などのために拳銃を奪取しようと[6]警視庁練馬警察署「中村橋派出所」[注 1]を襲撃し、勤務していた警察官2人(巡査A・巡査部長B)をサバイバルナイフで刺殺したが、被害者らの抵抗に遭い拳銃強奪は未遂に終わった[4]

警察庁によれば、派出所勤務中の警察官2人が同時に殺害され殉職した事件は1955年(昭和30年)以降では初で[15]、1979年(昭和54年)以降の10年間で勤務中の警察官が一度に複数人殺害され殉職した事例も三菱銀行人質事件(1979年1月26日発生)以来2件目だった[2]。本事件は「警視庁創立140年特別展」の来館者らに対し実施された「みんなで選ぶ警視庁140年の十大事件」のアンケート(2014年1月10日 - 5月6日に実施)[16]にて30票を得票し、第60位(うち警視庁職員の投票による順位では19位)に選出された[17]

加害者・死刑囚S

本事件の加害者S・S(イニシャル / 以下、姓のイニシャル「S」で表記)は1969年昭和44年)1月1日生まれ(現在54歳)[14]。身長167センチ、体重60キロ[18]。事件当時は東京都中野区上鷺宮三丁目14番13号のアパート[注 2]に居住していた[6]

刑事裁判の第一審で死刑判決を受け、控訴棄却判決を経て1998年(平成10年)に最高裁判所上告棄却の判決を受けたことで死刑が確定し[20]2019年令和元年)10月1日時点で[21]死刑囚として東京拘置所収監されている[14]。死刑確定後の2003年(平成15年)8月には犯行時の責任能力を問題として再審を請求している[22]

Sの生い立ち

Sは東京都板橋区出身で[注 3][7]、板橋区内の保育園を経て1975年(昭和50年)4月に板橋区立志村第六小学校へ入学したが、母親Xが仕事上で様々な苦労を抱え、父親Y(プラスチック加工会社の社員)も次第に子供の貯金箱を壊して小銭を持ち出すほど[23]競艇などギャンブルに凝ったことなどから家庭内の諍いが絶えず、1977年(昭和52年 / 当時8歳)ごろに妹とともに母Xに連れられて実父Yと別居した[注 4][24]。小さい頃には父親はSをよく競艇に連れて行き「儲けて家を買ってやるぞ」と言っていた[18]。母親Xの同僚によると父親はモデルガンなどの型を作る仕事をしており、家庭にはその手の玩具が溢れていた[25]

その後、母Xは自身が所長を務めていたポーラ化粧品株式会社志村橋営業所の部屋でSやその妹とともに3人で生活していたが、相談相手の男性Z(トラック運転手)と懇意になり、1978年(昭和53年 / Sは当時9歳)夏ごろにSやその妹とともに埼玉県戸田市内のZ宅[注 5]に転居し[24]、Sは戸田市立喜沢小学校へ転校したが、ZにはSと保育園からたまたま一緒で折り合いの悪い長男がおり、Sを度々いじめていたほか、ZがSの実母Xや自身の長男に対し些細なことで暴力をふるう姿を目の当たりにさせられていたことなどから、次第にZ父子との同居生活に不快感を募らせていた[24]

しかし粗暴なZに対する恐怖心から反抗もできず、それに耐える日々を送っていたが[注 6]、1983年(昭和58年 / 当時14歳)ごろには母Xが仕事上の悩み・Zの暴力的な振る舞いなどによる心労が積み重なったことによりうつ病に罹患し、症状が重い際には家事もできず終日家に閉じこもるようになってしまったため、Sは妹やZとともに自ら食事の支度などをする生活を余儀なくされた[24]

当時の近所の男性は「ほっそりした奥さんは、優しくて几帳面で働き者。それに比べてご主人は、浅黒くて恰幅がいい。でも、とっつきにくい感じでした」と語る。母Xは顔にアザを作ることもあり、近くの主婦には「子供を大きく育ててくれたんだし、私がちゃんと働かないんだからしようがないの」と漏らしていた[25]。なかなか別れられなかったことについては後の取材で母Xは「2度目の内縁の夫は暴力をふるう人で、ずっと別れたいと思っていました。でも、相手にSと同じ年の男の子がいて、その子にもかなり暴力をふるっていたのです。その子が不憫でなかなか別れられませんでした」と語った[26]

このような特異な同棲生活は浦和市立南高等学校(現:さいたま市立浦和南高等学校)卒業直前の1986年(昭和61年 / 当時17歳)11月に母XがZとの同棲を解消したことで終わったが、Sはそのような8年余りの特異な生活体験から「すべての不快な事態は自分なりの理屈で解釈し、それが説明できるときはそれなりに納得する一方、説明できないときは『そもそも不快な事態ではない』などと思い込む」ようになり、様々な生活関係による憤懣・不安の念などの感情を表面に出さず心中で押し殺すことで外見上の平静さを保とうとするようになった[24]。その結果、元来の明朗な性格は鳴りを潜めて神経質・自閉的な性格傾向を深め、次第に友人も少なくなっていった[注 7][24]。そのような生活の中で1985年(昭和60年 / 当時16歳)ごろからは漠然と「自分の不幸な家庭生活はすべて貧困に起因するものだ。金さえあれば嫌な人に頭を下げたり一緒に生活する必要はないから、大人になったら、とにかくどんなことをしてでも大金を手に入れなければならない。しかし真面目に働いても『お人よし』で終わるだけで、大金を手に入れることはできず幸福にはなれない。銀行・ギャンブル場(競馬場など)のように金の集まるところを襲えば、大金を手に入れることは可能であり、かつ、そうでもしなければ簡単には大金は手に入らない」などといった特異な生き方を考えるようになった[24]

Sは母Xと男性Zが一緒になった当初から「なんで結婚したんだ」と母親を詰っており[23]、別れた後には「もっと早く別れればよかったのに」と母親に対して言っていた。

小中高時代

少年時代から武器に興味があり、中学時代には玩具の銃に強い興味を示していたほか、中学1年生の時にはプラスチック弾を発射するライフル銃(エアソフトガン)を何度か学校に持ち込んで他生徒に見せびらかし、教師から叱られたことがあったという報道がされた[27]。しかし母親はそのことについて「銃にしても、一時的に興味を持っていただけです。学校にライフルのモデルガンを持っていって先生に叱られたなどと出ていましたが、あれは銃の好きな友だちに貸していたのを、友だちが返すのに学校へ持ってきちゃったんです。Sは、そんなものより本や映画の好きな子でした」と語っている[26]。成績は上位で理数系に強く、スポーツとは無縁で苦手は体育。3年生の時には数学の授業中に隣の男の子にからかわれてSはカッとなり相手の頬をコンパスの針で刺したことがあった、そのような噂が同級生の間であったという報道もされた[23][注 8]。一方で担任教師は事件について、「みんなとも仲良くやっていました。運動会について書いていた作文がとても素直で印象的でした。まさかねえ」と首をかしげている[28]

高校時代の成績は中位。自分の意見と合わないことはせず、球技大会にもバカバカしいと参加しなかった。一人きりでいることが多く、北方謙三大藪春彦が好きだった。当時の友人はSについて「一浪すれば駒沢か中央に入れたと思う」と語る[23]。部活動は全くやっておらず担任教師は全く印象に残っていなかった[29]。事件後の取材に対しクラスメートはいちように「ヘンな人だった」という感想を返していた。授業中におもむろにオペラグラスを取り出して黒板をじっと見だし、周りが気づいてクスクスと笑いだしても平然とノートを取り続け、教師に注意されてもやめなかったので気味悪がられた。

倹約癖がついたのもこの頃で、昼食も菓子パン一個。パンではないときはイワシやサバの缶詰を一つ持ってきていて、からかわれても平然と缶切りで開けて食べていた。仲間の輪に入っていこうとせず、一人で教室の隅にポツンとしていることが多かった。普段は無口だがときどき突然「バカヤロー」とわめいたり、からかわれてハサミを片手にクラスメートを追い回したこともあった。このことについて同級生は「まぁ半分冗談なんだろうけど、顔が真顔だからちょっと怖いですよね」と語る。友人宅の父親のだらしなさに怒って「バカヤロー」と捨て台詞を吐いて帰ったこともあった[29]。修学旅行では枕投げにも参加せず、また極端な写真嫌いで、うつむいたり人の陰に隠れようとし集合写真でも一人で離れようとして注意されていた[29] [30]。高校時代の同級生たちはおおかた「ネクラでちょっと気持ち悪いやつだった」と語ったが、優しい一面もあり、ある女生徒は「私がくたびれて一人でボーッとなっていたら、S君が近づいてきて『だいじょうぶ?』と何度か声をかけてくれた」という[25]。また自分の進路についてはSは同級生たちに「自衛隊に行っていろんな免許を取って、お母さんを楽させてあげるんだ」と漏らしていた。

高校の途中から今まで漫画や文学などを読んでいたのが哲学の本を読むようになり、母親に「自分のやりたいことをやって、自殺した人の話を知っている」と話したことがある。母親は心配し「哲学の本はやめなさい」と注意したが、事件後にアパートの部屋に荷物を引き取りに行くと、難しそうな本が沢山あったという[26]

陸上自衛隊時代

1987年(昭和62年)1月、当時18歳だったSは母親X・妹とともにZ父子と別れて初めて水入らずの正月を迎えたが、同年3月に高校を卒業すると同時に「母親Xから離れて自活しよう」と考え[注 9]、2任期4年間の勤務を志して自衛隊への就職を志望した[24]。1987年3月25日付で陸上自衛隊二等陸士として採用され、その直後には滝ヶ原駐屯地静岡県御殿場市)所在の普通科教導連隊に教育入隊した[24]。その後、約4か月間の新隊員前期・後期課程を経て、同年9月には同連隊第二中隊に小銃手として配置され、19歳になった1988年(昭和63年)1月1日には一等陸士に昇進し、20歳になった1989年(昭和64年)1月1日には陸士長へ昇進した[24]。12畳ほどの部屋に約10名の団体生活で、6時起床、8時から夕方まで勤務、10時就寝、土曜日は半どん、日曜日は休みであり、Sの給料は10万円だった。コツコツと貯金しており、後のアルバイト先の店長に「全然金を使わなかったから毎月何万円も貯まる」と話していた[28][29]

上官・同じ班の者からは「物静かで真面目なごく普通の隊員」として評価されていたが、[注 10]陸上幕僚監部に残っている調査書には「粘り強く計画性がある。射撃能力に優れている」と記されており[29]、射撃は同期30人の中でもトップクラスだった[25]。隊員と共に「プラトーン」を見に行ったこともあった[29]

また1988年から「本の置き場にする」と事件当時の住居だったアパートを借り[31]、月に一、二度外泊許可を貰って来ていた。上京してもこの部屋に閉じこもって読書することが多く[18]、元旦は20歳の誕生日だったが正月もこのアパートで一人で過ごした[29]。真向かいの部屋に住む[29]大学生甲(1989年6月時点で大学四年生24歳)を招いて数回酒を飲んだことがあるが、その時には「オレはネクラだ」「権力が何だ」[31]「アルバイトでお金を貯めていい暮らしをしたい。なんか大きなことをやりたい」と語った[18]。また自衛隊については「わざわざ自分たちで勝手に仕事をつくってやってるみたい。あまりおもしろくない。表面では落ち着いているけど、心の中ではムカついているんだ」[18] 「自衛隊は人と金を浪費している」[29]「自衛隊で、挨拶はしたが、内心ではコノヤロウと思ってた」[32]と批判する一方で「戦闘訓練は本当に楽しい。いいストレスの解消になる」[33]と目を輝かせていた[34]

そのうちSは隊内での生活になじめなかったため、他人に束縛されずに働けるフリーターを希望するようになった。またスポーツ活動などに参加もしていなかった。大学生甲はSが自衛隊を辞めることを知ると話を聞いて続けるよう勧めたがSはキッパリと辞めると話し、「これからだ[注 11]」と言っていた[28]。1989年(平成元年)3月24日には「就職先を紹介しようか」という上司の言葉に「フリーのアルバイターになるのが自分の夢」と固辞し[34]除隊後の就職斡旋の話に応じず、1任期満了で陸上自衛隊を除隊した[24]

またアパートでの生活は除隊直前の1989年3月4日、近所のビデオ店で会員になり「ブラックサンデー」「プラトーン」「特捜刑事マイアミ・バイス」など5本を借りたほか、[29]逮捕後には近所の小学生たちによると、前の公園で遊んで騒いでいた自分たちに対して「静かにしろ」と怒鳴りつけたり[35]、アパートの住人からは鬱憤を晴らすように部屋の壁を叩くこともあった、というような報道もされた[36]

事件の経緯

除隊後

事件現場(赤色「×」)周辺の航空写真。加害者Sは◎(自宅アパート)[注 2]から車を運転して「P」付近に路上駐車し[6]、「※」から被害者巡査Aの動向を観察した上で襲撃した[4]

陸上自衛隊除隊後、Sは母親と全く連絡を取らずに事件当時の住居だったアパートの居室へ転居した。それからも判で押したように朝は6時半に起き、8時半にアルバイトに出かけ、夜7時半から8時くらいには帰宅し、10時には寝る規則正しい生活をしていた[29]

同年4月9日 - 25日まで山形県内の自動車教習所で合宿教習を受けて普通自動車免許・自動二輪車免許を取得したほか、同年5月2日にはアルバイト情報誌で知ったコーヒー豆挽き売り店(東京都杉並区荻窪)でアルバイト店員として働き始めた[6]

履歴書には趣味は読書、得意な学科は英語と書き[28]、アルバイト先の店長(当時24歳)に「マジメそうだったから」「世間ずれしてなく、礼儀正しいので採用した」と10人以上応募があったうちの2人に選ばれ採用され、時給600円、週4日、朝9時半から19時まで働いていた。服装はいつもトレーナーにジーンズ姿で[37]、8時半には家を出て、定刻30分前には必ずやってきて遅刻することはなかった[27][28][29]

普段外食はせず、出勤前にいつも80円のメロンパンやクリームパンなどの菓子パンを一つだけ買ってきて、休憩時間30分のところを10分くらいで食べるとすぐに仕事に戻った。店長が「そんなものばっかり食べていて大丈夫か」と訊くとSは「店長も、そんな贅沢したらだめですよ」と逆に注意し、大学生甲には「食い物に金かけたくない」と話して自炊も質素だった[23][25][18]

難しい焙煎にも積極的に「やらせてください」と覚えるのに意欲的で、一度自転車でコーヒー豆の配達に出たきり2時間ほど戻ってこなかったことがあり、その時は600円のコーヒー袋を一個だけ落とし、雨の中ずっと探しまわって見つけてきたほど責任感も強かった[18][36]。店長はSを信頼して鍵を任せており、また自分の朝食用に買ってきたハンバーガーや客からの差し入れを渡したり、焼肉屋に連れて行ったことがあった。しかしSは遠慮して皿に肉をとってやらないと食べなかったという[28][32]

Sは大学に対してコンプレックスがあったようで店長に対して「大学出ているのに何でこういう仕事をしているのですか」「出身のW大学ってどんなふうですか」と訊いたこともあった。また、Sは隊員時代にプラトーンを見に行ったことを店長に「自分たちが使っている武器が実際に使われていた」と嬉しそうに話したこともあった[29]。大学生甲によるとアパートには女性や男友達が訪ねてくることはなく、実際に店長が「カノジョいるの」と訊くとSは「とんでもないっ」と答えていた[18]

また店は火曜日が定休日であり、Sは月曜日に教習所に通っていたことから月・火と二日続けて休みを取っていた。Sが試験をなかなか受けなかったため、店長が理由を訊くと「もう少し練習して確実にしたいから」と答えていた[29]

犯行計画の立案

このころは特段生活に困窮する状態ではなく[注 12]バイクは約60万円で購入したためローンなどもなかったが[27]、16歳(高校2年生)時から抱いていた大金入手の願望が再び頭をよぎるようになり、「まともに働いていたら何年かかっても大金は手に入らない。大金を得るためには銀行・ギャンブル場へ強盗に入るなど、法に触れることを覚悟しなければいけない」という思いが次第に強くなり、やがて「どうすればうまく大金を奪えるか?」などと思いを巡らすようになった[6]。なお最初の思いつきは4月半ばだったが、この頃はまだ「漠然とした思いつき」であった[39]

アルバイト先に務めて最初の定休日(火曜日)となる5月9日にはレンタカー[注 13]を運転して約2年ぶりに埼玉県浦和市(現:さいたま市浦和区)内の母親X宅を訪れた。その際にはXと今後同居するつもりがないことを察せられるやり取りや、「思ったより金が貯まらなかった」「アメリカに語学を学びに留学したい」「時給は安いがアルバイト先が決まったのでそこで頑張る」[41]といった言葉を残して自宅アパートに戻った。しかし、このころには「銀行強盗などをして大金を奪うためにはまず拳銃を入手しなければいけない。そのためには常時拳銃を腰に着装している警察官を襲うしかない」などと考え、警察官を標的とした具体的な拳銃強取方法を考えるようになった[6]

5月11日ごろ、Sは「自宅アパート(中野区上鷺宮三丁目14番13号 / 画像中の黄色「◎」)[注 2]の近くにあり、犯行後の逃走が容易だ」との理由から現場となった「中村橋派出所」[注 1](練馬区中村北四丁目2番4号 / 画像中の赤色「×」)を実行場所として狙いを付けたほか[注 14]、拳銃強奪の具体的実行方法として「人通りの少ない深夜に警察官が1人で派出所にいる隙を狙う。先端が鋭利なサバイバルナイフで警察官を背後から突き刺して殺し、拳銃を奪ってそのまま自宅アパートに逃げ帰る」という方法を考え付いた[6]。そしてその決行の日については「犯行の翌日に勤務先の者と会わない日」として、翌週の勤務先の定休日(火曜日)の前夜である5月15日夜 - 翌16日未明にかけて敢行することを決めたほか、凶器は事件2年前(1987年 / 昭和62年)に東京・上野のモデルガンショップで購入していた鋼製両刃・刃体の長さ約17センチメートルのサバイバルナイフ(平成元年押第1132号の6 / ガーバー社製「マークII」)[注 15]を使用することにした[6]

決行予定日の1989年5月15日、Sは「中村橋派出所」を車内から見張るために使用する自動車を用意するため、9時ごろにニッポンレンタカー東京株式会社鷺宮営業所(中野区鷺宮)でレンタカーの借用を予約し、13時 - 16時ごろまでの間は北豊島園自動車教習所(東京都練馬区)で継続して受講中の二輪免許限定条件解除のための教習を受けた[6]。その後、18時ごろにレンタカー1台(トヨタ・カローラ)を借用した上で見張りに用いる双眼鏡を購入するため、カローラを運転して豊島区東池袋の「ビックカメラ本店」[注 16]へ赴き、18時58分ごろに同店地下2階売場で双眼鏡1台(本体・ケース・レンズ部分のキャップのセット)[注 17]を購入した上でアパートに戻った[6]

アパートに戻ったSは犯行時の服装には黒い背広上下・黒地に白色縦縞のスタンドカラーシャツ・赤い靴下・黄土色のローファーを選び、24時ごろに着替えて身支度を整えると、犯行現場へ携行する物を入れるため双眼鏡を購入したビックカメラの手提げ紙袋1袋(平成元年押第1132号の1)を用意。その袋の中にサバイバルナイフ・双眼鏡と緑色軍手片方[注 18]、タオル1枚[注 19]を入れて準備を完了し、アパート前に駐車してあったレンタカーにその紙袋を積み込んだ上でレンタカーを運転して中村橋派出所へ向かい、派出所内部が偵察できる場所に駐車すべく走行・移動した[6]

その後、Sは派出所の東方約87.5メートル(m)に位置する「西友 中村橋店」(練馬区中村北三丁目15番6号 / 画像中の黄色「P」)の南側商品搬入口に車の後部を乗り入れた状態で路上駐車し、車内から焦点を微調整した双眼鏡で派出所の様子を偵察した[6]。しかし当時は警察官2人が見張り勤務に立っており[注 20]、二度機会をとらえようとして果たせず[49]、かなりの時間が経過しても警察官が1人になる気配が一向に感じられなかったため「派出所に近づいて1人になったところを隙を見て襲うしかない」と判断した上で、双眼鏡を車の後部座席に置き、サバイバルナイフなどの入った手提げ袋を持って車を降りた[6]。Sはそのまま徒歩でいったん派出所まで接近したが、容易に襲撃の機会を見出すことができなかったため、警察官に気付かれないよう派出所付近の路上を行きつ戻りつしながらも執拗に警察官を襲撃する機会を窺った[6]。一方で2時すぎ - 2時50分ごろには派出所近くで少年3人が職務質問されていたが、A・B両被害者とも当時派出所にいた[50]

警察官2人を殺害

交番の裏口

1989年5月16日2時50分ごろ、加害者Sは「中村橋派出所」裏側路上で警察官から拳銃を強取する目的でA・B両警察官をサバイバルナイフで襲い、2人を刺して殺害することで両警察官の職務の執行を妨害したほか(強盗殺人罪および公務執行妨害罪)、派出所裏側路上で正当な理由なく凶器のサバイバルナイフ1本を携帯した(銃砲刀剣類等所持取締法違反)[4]

事件発生時刻ごろ、Sは派出所の西方約70メートルに位置する「練馬区中村橋集会所」(中村北四丁目2番8号 / 画像中の黄色「※」)前路上に差し掛かった際、執務中の被害者・巡査A(警視庁練馬警察署警邏第三係・30歳没)[注 21]が派出所出入り口前(東側)に一時保管していた遺留自動二輪車を派出所裏側(西側)の遺留自転車等保管場所[注 22]へ移動作業中であることを確認し、巡査Aの動静を窺った[4]

するとAが保管場所で自動二輪車の出し入れをしており、その背後が全く無防備になっていたため、Sは「この機会にAを殺害して拳銃を強奪しよう」と決意して東進し、派出所と集会所の間(中村北四丁目2番8号)にあった蕎麦屋脇の電柱(中村24)の陰に身を隠し、所持した手提げ紙袋の中から凶器として用いるサバイバルナイフを取り出して右順手に持った[4]。Sは用意した軍手片方を左手に着用する余裕もないまま小走りに巡査Aへ背後から近づき、背中をサバイバルナイフで突き刺したが、Aが振り向いて「やめろ」と言いながら両手でSの上腕部を掴み、その場に倒れ込む格好となった[4]。(取り調べでのSの供述では状況がやや異なり、SはAにそっと背後から近づいたあと、腰の上あたりにナイフを突きつけて「動くな」と脅かした。しかしAは驚かず、逆に右肘で振り払いながら「やめろ」と言って振り向こうとしてきたので、背中を刺した。Aは一突きでは倒れず、振り向いて自分を捕まえようとしてきたので、胸付近を刺したところ、なおもAが掴みかかってきたためにその場に倒れたということになっている[51]

さらにAは上半身を起こし、なおもSの身体から手を放そうとしなかったため、Sは正対したままAの胸部などを力任せにサバイバルナイフで突き刺してAをその場に仰向けに倒れさせた[4]。そしてSはAに致命傷を負わせると、そのままAが着装していた拳銃を奪おうと右腰あたりの拳銃ケースに手を掛けたが、Aが拳銃を奪われまいと抵抗したことに加え、S自身も慌てていたためケースカバーを外せず、拳銃を奪うことには失敗した[4]

そのころ、派出所内で執務していた被害者・巡査部長B(練馬署警邏第三係・35歳没)[注 23]が同僚Aの急を察知してSがAを襲っていた派出所裏へ駆けつけ、警棒を振り上げながらSに対し「おい!」と声を掛けた[4]。その場で立ち上がったSは咄嗟に「このままでは捕まる」と考えたため「いっそのことBも殺して、拳銃を奪って逃げよう」と決意し、Bが振り下ろした警棒を左手で払いのけ、右手に持ったサバイバルナイフでBの胸部を力任せに突き刺した[4]。BはひるまずSと組み合い、路上に転倒したまま揉み合ったが、SはBの胸部などをサバイバルナイフで数回にわたり力任せに突き刺して致命傷を負わせ、Bが着装していた拳銃ケース(「平成元年押第1132号の17」)に手を掛けて拳銃を強奪しようとしたが、Bの激しい抵抗に遭い失敗に終わった[4]

Bが拳銃を抜くのを見るとSはそのまま逃走したが、BはなおSに対し拳銃を3発発射して威嚇したほか、最後の力を振り絞って派出所へ戻り、事件発生を電話連絡した[12]

目撃情報

BとSが揉み合っている姿は前出の蕎麦屋の二代目店主(当時63歳)に目撃されている。二代目が外の木戸が蹴飛ばすような音を立てたので目を覚まし、「何だろう」と不審に思いながら起き上がり二階の窓から道路を見下ろした。BとSが揉み合っており、その時BはSを組み伏せていた。

二代目は「そうか。犯人を取り押さえているのか」と納得したが、組み伏せられていたはずのSが(おそらくここでナイフを使って)逆転して上になった。Sはすっと立ち上がると5、6歩富士見台駅方面(西方)にゆっくりと歩いて振り返った。その時二代目はSに対して「なんだ若造だな」と思ったという。Bが銃を抜くとSはすぐ走り出した。ジグザグに逃げる姿を見て、二代目は軍隊の経験があったことからこの時点ですぐに「これは軍隊の心得がある者だな」と見抜いていた。

Sが闇の向こうに姿を消すと、Bは追跡を諦め、よろよろとした足取りで派出所に戻った。二代目は自宅から110番し外に飛び出すと後の三代目(当時23歳)と鉢合わせた。

三代目は、その晩、ゴルフの練習から帰ってきて車を停めた駐車場から歩道を歩いているところ、倒れたAが目に飛び込んできた。また、路上には帽子や警棒、拳銃の安全ゴムが散乱していた。これは大変なことだと思い、派出所に駆け込むとBが椅子に座ったまま机に顔を突っ伏していた。派出所の中は血に染まり、腹の辺りから鮮血が滲んでいた。机に投げ出された右手のすぐ先には、外れた受話器が転がっている。「大丈夫ですか」と三代目が叫ぶとBは「うん、うん、うん」と小さな声で唸っている。三代目は早く助けを呼ぼうと公衆電話から110番しようとしたが上手くいかず、自宅からかけようと裏口から蕎麦屋に入ろうとしたところで父である二代目と鉢合わせたのだった。

二代目がもはや虫の息のBに「110番したからな」と声をかけると、Bは頷き、息絶えた。やがて規制線が張られ、パトカーや鑑識、機動捜査隊、捜査一課の車両が通りを占拠した[52][29]

逃走と証拠隠滅

一方、Sは血染めのナイフを持ち、返り血を点々と道に残しながら自宅方向へ200メートル全力疾走で逃げ、中村北四丁目の交差点を右折しクリーニング店前の水道で一旦血を洗い流した。さらに現場から500メートル離れた社員寮へ逃げ込み、その後千川通りを挟んで反対側にある自宅に逃げ帰った[53]

アパートに辿り着くと、いつも出入りする表入口が開閉の時にかなり大きな音をたてることに気づき、裏口へまわった。裏口から自室へ辿り着くと室内は蛍光灯の豆電球だけがついている状態だった。Sは灯りをつけるとあとで怪しまれると考え、薄暗がりの中ジャケットを脱ぎ、ズボンについた血を拭った。外でパトカーのサイレンの音がし、Sはここで初めてナイフの鞘やタオルなどを入れていた紙袋を事件現場に忘れたことを思い出し、不安になり結局朝まで眠れなかった[49]

朝、大学生甲はいつになく早起きして6時頃に目を覚ましたが、いつもは同じ頃に目を覚ましてくるSが部屋にいなかった。「あれー、どうしたのかな」と思ったが[25]、その時Sは既にワイシャツとジーンズに着替え、表の様子を探るべく外へ出てセブンイレブン富士見台店に入り、テレビで二警官が殺害されたニュースを見ていた[49]

その後レンタカーをとりに戻り、しばらく当てもなく走り回った[54]。しかし車を数カ所へこませる事故を起こし、犯行5時間後となる5月16日8時ごろにはレンタカー営業所へレンタカーを返却[注 24]。車は左側ドア・右後部パンパ―など数か所がへこんでおり、Sは係員に対し「近くの路地に入り込んでしまい、何回かぶつけてしまった」と説明した[56]。そのため営業所側は保険請求手続きの必要性から警察に届けるように求めると、Sは「わかりました」と素直に応じ、自ら近くの野方署鷺宮駅前派出所へ出頭し、同署内にいた警官を伴ってレンタカー会社へ一緒に戻り、車を見せながら事情を詳しく説明していた[56][18][29]。後にこの一連の行動は犯行をカモフラージュするための偽装工作だったのではないかという見方もされた[56]

大学生甲は大学の帰りに事件を知り驚いた。詳しく知るにつれて、Sに対し「ひょっとして……」と考えるようになった。元自衛官で犯人と身長や年齢が似ていたことや、酒を一緒に飲んだ時に表面には出さないが内面的にはかなり激しやすい性格だと感じていたからだった。しかし、その日の夕方にSは帰ってきたので、犯人なら逃げているはずだから思い過ごしだったとホッとした[29][25]

翌日の朝、階下の洗面所に降りていくと既にそこにSがおり、大学生甲は「警官殺されたね」と話しかけると、「そうですね、大変なことになりましたね」と平然と言ったきり前を向いたまま目をぴくりとも動かさなかった。[25]

また、アルバイト先の店長が事件に関する記事を読んでいる姿を目にしていても、Sは特に変わった態度を取っていなかった[29]

18日か19日の午後9時頃[41][注 25]、Sは凶器のサバイバルナイフ・犯行時に着用した衣服・靴・軍手などを紙袋に入れて手に持ち、電車と徒歩で[57]武蔵関公園に向かい、池[注 26]に投棄して罪証隠滅工作を図った[58][29]。この行動は後に捜査員を「無謀、幼稚、ずさん」と呆れさせた[59]。また警視庁詰めの記者は「凶器のナイフを持ち歩くとは大胆極まる。もし途中で職務質問されたら即逮捕のはずだもの」と舌を巻いたが、同時に「シューズを包んだ袋は、コンビニエンスストアのものだった。Sが毎日買い物に行ってたコンビニエンスストアのものだったんだよ」とずさんさに首を傾げ、Sの犯行は逮捕後「緻密な計画性と大胆さ、幼稚でずさんなところが同居している」と報じられた[29]


注釈

  1. ^ a b c 2020年4月1日現在は「中村橋交番」[1]西武池袋線中村橋駅から南へ約20メートル離れた東京都道439号椎名町上石神井線(通称:千川通り)沿いに位置する交番で、周囲は事件当時から商店・マンションが立ち並び[2]、深夜も人通りが絶えない場所だった[3]
  2. ^ a b c Sが住んでいたアパートは現場派出所から西方へ約500メートル離れた場所にあり[19]、自衛官時代の1988年夏から「本の置き場所にする」との理由で借りていた[9]
  3. ^ 本籍地は「東京都板橋区船渡一丁目1番地」[7]
  4. ^ その後、1978年9月11日付でY・X夫婦は協議離婚(子供2人の親権者は母X)した[24]
  5. ^ Sが母親Xや妹+男性Zとその長男の計5人で生活していた当時の居宅は2間(6畳+4畳半)のアパートだった[24]。1983年にアパートを出て近くの一戸建てに移住したが、その後も特異な同居生活は好転せずさらに深刻さを増すばかりだった[24]
  6. ^ その間、Sは1981年(昭和56年 / 当時12歳)に小学校を卒業して戸田市立喜沢中学校へ進学し、1984年(昭和59年 / 当時15歳)で浦和市立南高校へ入学した[24]
  7. ^ Sの人物像は周囲から見ると「真面目で温厚だが、無口で感情を表さず、暗い感じの孤独を好むタイプ」と受け取られるようになっていた[24]
  8. ^ なおこれは事実であると報じる記事と、噂であると報じる記事がそれぞれ存在している
  9. ^ Sは化粧品セールスをしていた母親Xが借金を抱えていたために大学進学を断念しており、自衛隊を就職先に選んだ理由は「心身の鍛錬になり、職場として安定しているから」だった[9]
  10. ^ 自衛官時代は賞罰ともなかった[9]
  11. ^ これは何に対して「これから」と言っていたのかは判明していない
  12. ^ 自衛隊時代に120万円を貯金し、除隊時に約43万円の退職金を受け取った[38]。その後、750 ccオートバイの購入や運転免許取得などにより約90万円を遣ったが[38]、逮捕時には額面約80万円の預金通帳を持っていた[9]
  13. ^ この時には(14 - 18時30分まで)犯行時と同じ営業所で同じ白いカローラを借りており、走行距離も犯行当日の距離数(48キロメートル)とほぼ同じ(46キロメートル)だった[40]。当時Sは運転免許を取得したばかりの初心者だったため、特捜本部は「Sは犯行後の逃走用に車を使うことを計画し、あらかじめ走行コースを決めた上で目立たず運転しやすい昼間を選び、下見を兼ねて試走・練習していた」と推測した[40]
  14. ^ Sの自宅アパートから最も近かった派出所は野方警察署上鷺宮駐在所だったが、同駐在所は夜間に駐在員がいなかった[40]
  15. ^ 事件3年前(1986年)に大阪府大阪市西区の輸入代理店が輸入し[42]、「アメヤ横丁」のナイフ専門店にて1987年(昭和62年)6月以降に販売されていた[43]。現場で発見されたナイフケース(鞘)とセットになったサバイバルナイフは「マークII」以外に片刃の「コマンドII」もあったが、2種類とも1986年(昭和61年)に計百数十本を日本へ代理店などを通じて輸出しただけで[44]、1987年11月以降は製造されていなかった[45]
  16. ^ 東京地裁(1991)ではビックカメラ東口店(本店)の住所が「東京都豊島区東池袋一丁目11番7号」となっているが、同住所は2020年4月時点で「ビックカメラ アウトレット池袋東口店」の所在地になっており[46]、本店(池袋本店)の住所は「東池袋一丁目41番5号」である[47]
  17. ^ 双眼鏡本体は「平成元年押第1132号の8」、ケースは「同号の9」、キャップは「同号の7」[6]。双眼鏡は倍率10倍(ケンコー社製)で、1989年4月中旬に発売されて以降同店で10台前後しか売れていなかった[48]
  18. ^ 左手のみに着用するため[6]
  19. ^ 血液・指紋を拭き取るため[6]
  20. ^ 同派出所では15日16時から被害者2人(巡査A・巡査部長B)のほか別の巡査1人が勤務していたが、この巡査は事件当時派出所2階で仮眠中だった[3]
  21. ^ 巡査Aは1959年(昭和34年)4月29日生まれ[4]
  22. ^ 派出所とその西側の「中村橋歩道橋」との間にある空き地[4]
  23. ^ 巡査Aは1954年(昭和29年)2月26日生まれ[4]
  24. ^ この時点では事件当時目撃された黒い服装ではなく、白いワイシャツ・ジーンズ姿だったため、犯行後に車内で着替えたものと推測された[55]
  25. ^ 18日なのか19日なのかはS自身も記憶が曖昧らしく、正確な日付は不明である
  26. ^ 派出所から西方約6キロメートル地点の「富士見池」[57]
  27. ^ いわゆる「カン」。被害者の人間関係を洗い、恨んでいた者などがいないかを捜査すること。被害者との関係が濃いならば「濃カン」、薄いならば「薄カン」と事件の筋読みをしていく。動機から容疑者を追い詰める捜査である。
  28. ^ 現場周辺を区割りして捜査員に担当させ、徹底的に聞き込みを行う捜査のこと。この事件では現場周辺は26区に割られた。
  29. ^ いわゆる「ブツ」。贓品とは盗品など不正な手段で入手した品物のことで、窃盗事件では「なし割り」といって質屋や古物商などを回る捜査を行う。この事件ではSの遺留品の製造・販売ルートを追跡する捜査のこと。
  30. ^ 現場から約600メートル離れた自動車部品会社の男子寮敷地内[42]
  31. ^ ガーバー社製の戦闘用ナイフ。三万円前後。ジャケットに包まれていた。Sの使用したものは柄が黒く、440Cステンレス鋼のブレードに「MARKⅡ」と刻まれているもの。全長約30センチ、刃渡り約17センチ。
  32. ^ ゴコーグローブ社の「ゴコーシームレス」という製品。殆どが自衛隊駐屯地で売られていた。なお犯行時の軍手とは色や糸が違う別の物
  33. ^ 群馬県内の衣服製造会社で1987年9月から10月にかけて70着製造。上下組み合わせで3万円前後。 ジャケットはMサイズ(160〜180センチ用)。価格9800円。 ズボンもサイズはM。胴回り76センチ、股下72センチ、ミシンで裾上げされており裾はダブルになっている。価格5800円。
  34. ^ 名古屋市内の衣服製造会社が1987年9月から10月にかけて100着限定製造した特別製品。一着3900円。襟の高さ2.5センチ、縞の間隔1センチ。ボタンは白。
  35. ^ 神戸市のメーカー製。サイズ26センチ。製品名「キャメル」。「COSMIC PROJECT」という文字が刻まれていた。牛革製。価格3600円から4800円。靴紐がなく、靴音があまり立たないもの。
  36. ^ ケンコー社製の「アートス」という双眼鏡のもの。定価1万7500円、倍率10倍のワイド型。ジャケットの内ポケットに入っていた
  37. ^ 同年8月に加害者・宮崎勤が逮捕され解決した。
  38. ^ 血痕から犯人が分かりにくい路地を巧みに右左折したことが判明したことに加え[42]、凶器などが投棄された富士見池は地元の人間以外はほとんど知らない場所だったため[72]
  39. ^ 1988年12月初めに派出所近くの雑居ビルにあった女子トイレに侵入して巡査部長Bら派出所の警官2人に現行犯逮捕されたシンナー常習者の若い男や[5]微罪で派出所の警官に職質された人物なども捜査線上に挙がっていた[71]
  40. ^ 1987年7月には過激派非公然部隊の武器製造アジトが現場付近で摘発されていた[61]
  41. ^ もう1つの濃い緑色の軍手(派出所付近に遺留)は雑貨店・作業衣店などで販売されていたが、一般向けにはほとんど売れず、自衛隊などに大量に納入されていた[45]

出典

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  91. ^ 『読売新聞』1991年2月16日東京朝刊第一社会面31頁「東京・練馬の2警官殺害事件 検察側が元自衛官に死刑を求刑」(読売新聞東京本社)
  92. ^ a b c d e f 『毎日新聞』1991年4月6日東京夕刊社会面10頁「[取材帳から]身につけた哲学「感情を消す」被告─東京・練馬2警官刺殺事件」(毎日新聞社)
  93. ^ 『読売新聞』1991年5月28日東京朝刊第一社会面31頁「東京・練馬の派出所2警官刺殺 元自衛官に死刑判決/東京地裁」(読売新聞東京本社)
  94. ^ 『毎日新聞』1991年5月28日東京朝刊第二社会面22頁「警視庁練馬署派出所の2警官を刺殺 元自衛官に死刑--東京地裁判決」(毎日新聞東京本社)
  95. ^ 毎日新聞』1994年2月24日東京夕刊第一社会面11頁「一審判決を支持 控訴審も死刑--練馬の2警官刺殺」(毎日新聞東京本社
  96. ^ 東京高裁 1994.
  97. ^ a b 『読売新聞』1994年2月24日東京夕刊第二社会面18頁「練馬の2警官刺殺事件 『非情な犯行』と元自衛官に二審も死刑/東京高裁」(読売新聞東京本社)
  98. ^ 『毎日新聞』1994年2月24日東京夕刊第一社会面11頁「一審判決を支持 控訴審も死刑--練馬の2警官刺殺」(毎日新聞東京本社)
  99. ^ 『中日新聞』1989年6月9日朝刊朝刊社会面31頁「2警官視察事件 ビデオ店で浮かぶ 事件の3日後 身辺調査で追い込む」(中日新聞社)
  100. ^ 『SPA!』1989年6月21日16〜17頁「警察官殺人犯の愛読書は『ゴルゴ13』、20歳の元自衛官は、どんな男なのか」(扶桑社)






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