中島平太郎
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/26 09:23 UTC 版)
ナビゲーションに移動 検索に移動経歴
- 1921年 - 3月、福岡県久留米市に生まれ、女系家族の中で60年ぶりの男子として祝福された。
- 1938年 - 福岡県立明善高等学校卒業後、明治専門学校(現在の九州工業大学)へ進学。[2]
- 1942年 - 明治専門学校卒業後、東京工業大学へ進学。
- 1944年 - 東京工業大学電気工学科卒(戦時下につき繰り上げ卒業)後、九州大学大学院特別研究生。工学博士。
- 1947年 - NHK入局。音響技術研究に携わる。
- 1963年 - 石橋文化センター(福岡県久留米市)内の石橋文化ホールの音響設計実務に携わる。
- 1964年 - 東京オリンピックの音響システム(注: 公共放送設備ではなく競技場内の拡声設備)の責任者を担当。
- 1965年 - NHK放送技術研究所音響研究部部長就任。
- 1968年 - 世界初のデジタル録音機を公開。
- 1968年 - NHK放送科学基礎研究所所長就任。
- 1971年 - ソニー入社。常務取締役技術研究所所長就任。当時の社長井深大によるヘッドハンティングであった。その時の井深の囁いた「物作りは楽しいぜ、来なよ」との台詞は有名。その後、音響事業部長、デジタルオーディオ部長などを歴任。
- 1981年 - DAT懇談会会長および日本音響学会会長就任。CD-DA発表。
- 1982年 - 世界初のCDプレーヤーを発売。
- 1983年1月28日 - ソニーの子会社であるアイワ株式会社再建のため副社長に就任。
- 1984年 - アイワ社長。
- 1987年 - アイワの経営悪化の責任を取って社長退任。
- 1989年 - ソニーと太陽誘電の50:50合弁でCD-R製造販売を事業とする株式会社スタート・ラボが設立、社長就任。
- 1992年 - 日本オーディオ協会会長就任。オレンジフォーラム(CD-R標準化団体)会長就任。
- 2001年4月25日 - オレンジフォーラムとマルチメディアCDコンソシアムが合併し、任意団体CDs21ソリューションズが設立。会長就任。
- 2003年4月17日 - CDs21ソリューションズが中島平太郎賞を創設。CDに貢献した人物に毎年贈られる。
- 2004年6月 - 異業種交流会の基調講演として「デジタル化の功罪」を講演。
- 2006年 - ビフレステック株式会社設立。代表取締役会長就任。
- 2011年12月7日 - ソニー主催で「音をゆらす ~原音忠実再生から心地よさの追求へ~」を講演。約200名のエンジニアが熱心に聴講。
- 2012年12月6日 - 「音の日」、日本オーディオ協会60周年記念協会栄誉賞を受賞。
- 2014年4月1日 - NH Lab.(Nakajima Heitaro Laboratory)を設立。
- 2017年12月9日 - 午前11時44分、東京都目黒区内の病院で虚血性心不全(急性心不全とも)のため逝去。享年96[3]。
主な業績
- プロ用コンデンサーマイクの開発(NHK技術研究所時代、今なお現役のソニーC-38Bの源流になるCU1-1を1954年に開発。その商品化はソニーに依頼)
- 国産初の放送モニタースピーカー(BTS放送技術規格)の開発(NHK技術研究所時代、商品化は三菱電機に依頼。型式名:2S-305)
- 世界初のデジタル録音機を製作
- PCMプロセッサー(家庭用VTRを使ったデジタルオーディオ録音機)の開発を主導
- CD-DAの開発・標準化を主導
- DATの標準化を主導(開発には関与していない)
- CD-Rの開発・標準化を主導
CD-DAはソニーとフィリップスの共同開発だが、中島はそのソニー側の責任者だった。規格制定の貢献度は両社50%ずつと公式に発表されているが、技術コンペを経てソニー側が主張した技術が多く採用されている。
デジタル録音可能メディアであるDATとCD-Rにおいて音楽著作権の在り方に関し、日本レコード協会としばしば対立した。
- ^ “「CDの父」中島平太郎氏、久留米に銅像”. 西日本新聞ニュース (2019年11月7日). 2019年12月9日閲覧。
- ^ 音との付き合い70年~(その1)NHKに入るまで (一社)日本オーディオ協会 JASジャーナル2016年9月号(Vol.56 No.5)
- ^ 中島平太郎氏、死去=96歳、「CDの父」 時事ドットコム、2017年12月13日
固有名詞の分類
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