デューク・エイセス デューク・エイセスの概要

デューク・エイセス

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/02/23 15:15 UTC 版)

概要

黒人霊歌「にほんのうた」シリーズなどをレパートリーとしているほか、ジャズコーラスグループとしても活動。また、同じメンバー構成のコーラスグループである、ボニージャックスダークダックスとは共同でショーの開催もしていた。デューク・エイセスという名前の由来は選りすぐられた公爵という意味。

解散

2017年5月に年内をもって解散を発表し[1][2]、12月13日NHKごごナマに出演。これが最後のテレビ生出演となり、そして12月21日に東京・メルパルクホールでのラストコンサートを行い解散。62年の活動に幕を降ろした[3]

メンバー

立ち位置は、ダークダックス同様、向かって左から右に高音→低音となっている。

解散時のメンバー

高音→低音の順。

  • 大須賀ひでき(おおすが ひでき、1956年11月30日 - )。現在66歳。東京都出身。血液型B型。愛称はヒデキ。トップ・テナー。立ち位置は一番左。2009年7月、病に倒れた飯野知彦の代役として加入し、その後正式メンバーとして加入。
  • 岩田元(いわた げん、1969年10月31日 - )。現在53歳。東京都出身。血液型O型。愛称はゲンチャン。セカンド・テナー。立ち位置は左から2番目。脳梗塞で倒れた吉田一彦の代役を努めてきたが、吉田が引退を表明したため、2015年3月に正式メンバーとして加入[4]。岩田がスケジュールのため、吉田の代役として、デューク・エイセスに参加出来ない場合は、大須賀ひできとミュージカルで共演した小西のりゆきが吉田、岩田の代役を務めた。
  • 谷道夫(たに みちお、1934年11月8日 - )。現在88歳。宮崎県出身。宮崎県立宮崎大宮高等学校卒業[5]。血液型O型。愛称はミーちゃん。ベース→バリトン。立ち位置は右から2番目。本名は、桑原道士。結成当時からのメンバーで、槇野の加入以前はベースを担当。1960年からは和田昭治に代わり、リーダーを務める。現在コーラス教室の講師も行っている。祖父の桑原節次は、1934年制定の初代『宮崎県民歌』(作曲:古関裕而)を作詞した[6]
  • 槇野義孝(まきの よしたか、1936年2月24日 - )。現在87歳。新潟県出身。血液型A型。愛称はトノサン。立ち位置は一番右。本名は、真野義亮。明治大学工学部卒業。ベース。1958年、大屋剛人の後任として加入だが、キーの関係上、パートはベース。1972年頃まで名字が「真木野」表記だった[注釈 1]。万年筆、車の愛好家の面もあり、その方面で著名である。ダジャレ好き。また写真家の濱谷浩は叔父に当たる。ダークダックスのゾウさんこと、遠山一、ボニージャックスの のぼさんこと、玉田元康に田代美代子という組合せで「三大テノール」(ルチアーノ・パヴァロッティプラシド・ドミンゴホセ・カレーラス)ならぬ「三大バス」ツアーという形式でコンサートを行うこともある。

解散前に脱退したメンバー

  • 和田昭治(わだ しょうじ、1928年5月8日 - 2014年4月19日)セカンド・テナー。東京都出身。1955年にデューク・エイセスを結成し約6年間リーダーとして活躍した後、作曲家に転進し、数々のCMソングを世に残す。「サントリーレッド」「トリスビール」「湖池屋ポテトチップス」「バネットライオン」など、その数は約800曲に上る。また中村八大と共にNHK総合テレビの若者向け音楽番組『ステージ101』の音楽監督を番組放送開始の1970年1月から1972年4月まで務め、レギュラー出演グループであるヤング101の歌唱指導を行なって「ワンツーおじさん」の愛称で準レギュラー出演した[注釈 2][7][注釈 3]。晩年は都内でボイストレーナーとして指導していた。指導したグループや門下生はジャッキー吉川とブルーコメッツザ・ワンダースダウン・タウン・ブギウギ・バンド少年隊を始め数知れず、日本のポピュラーソング界に大きな足跡を残した。離脱後もデューク・エイセスOBとしてコンサートにゲスト出演したことがあり、その際には喝采を浴びた。後任は小保方淳。リーダーの後任は谷道夫。2014年死去。享年85歳。
  • 川上道夫(かわかみ みちお)。トップ・テナー。東京都出身。デューク・エイセス結成時のメンバー。デューク・エイセス以前は「ジャズのど自慢」に常勝出場者として出演していたセミプロ。進駐軍巡りのハードスケジュールがたたってのどを壊し、1957年に離脱。後任は吉田一彦。
  • 大屋剛人(おおや のりと)。バリトン。東京都出身。川上同様、デューク・エイセス以前はジャズのど自慢常勝出演のセミプロ。芸能界引退(その後平凡社に入社)のため、1958年に離脱。後任は槇野義孝だが槇野のキーの関係などから、それまで大屋のパートだったバリトンを谷道夫が担当することとなった。
  • 小保方淳(おぼかた じゅん)。セカンド・テナー→トップ・テナー。加入当初はセカンド・テナーだったが、後に吉田一彦とパートを交代し、トップ・テナーになる。愛称は、ピノキオ。ロイヤルナイツを経て、和田昭治の後任として加入。本人の加入後、「おさななじみ」などの歌謡曲のヒットでデューク・エイセスの人気は高まりはじめる。甘い美声で人気を博し、多くのレコーディングにも参加したが、方向性の違いからデューク・エイセスを円満離脱、谷口安正と交代する。脱退後はボーカル・ショップに参加[8]。ボーカル・ショップ解散後はソロ活動を行っている。後任は谷口安正。
  • 谷口安正(たにぐち やすまさ、1939年6月28日 - 1990年12月31日)。長崎県出身。血液型B型。愛称は、ヤスボウ。立ち位置は一番左。青山学院大学英文学科卒業。トップ・テナー。在学中はグリーンハーモニー合唱団指揮者としても活躍するなど、既に音楽関係者の間では名が知れ渡っていた。卒業直前にパーティーで競演したデューク・エイセスから乞われる形で学校卒業後の1964年5月に加入。加入の際には当時デューク・エイセスがレギュラー出演していた「夢であいましょう」にて、デューク・エイセスの持ち歌である黒人霊歌を1番を小保方、2番を谷口が歌うという形でメンバー変更を全国に知らせた。四半世紀に渡りトップ・テナーを担当し、デューク・エイセスの黄金時代を支えた。1990年、35周年コンサートも盛況のうちに終了ののち、同年12月に自宅で脳出血で倒れ、手当のかいなく急逝、満51歳。後任は飯野知彦。
  • 飯野知彦(いいの ともひこ、1953年5月6日 - 2009年11月20日)。群馬県出身。血液型O型。愛称は、トモさん。東京芸術大学卒業。トップ・テナー。立ち位置は一番左。脳出血で倒れた谷口の急逝により、以前より縁があったデューク・エイセスから後任の打診を受け、イタリアミラノ留学を中断し帰国。1991年加入。2008年に胃がんが発覚し治療を受け回復するものの、2009年1月に転移が発覚。通院治療を行いながら活動したが、同年6月15日に自宅で倒れて入院以来約1か月意識不明の状態に陥っていた。早期の復帰が困難とみられることから、事務所及び家族が話し合い、55周年目前にグループを一旦離脱という形になった。意識回復後はリハビリに取り組むなど、復帰を目指したが願いは叶わなかった。2009年11月20日胃がんのため死去、享年56歳。後任は大須賀ひでき。5月21日に大阪厚生年金会館で行われた「BS日本・こころの歌」(BS日テレ)の公開収録が最終出演。
  • 吉田一彦(よしだ かずひこ、1936年1月25日 - 2020年2月9日)。大阪府出身。血液型O型。愛称は、カイチョー。トップ・テナー→セカンド・テナー。立ち位置は左から2番目。本名は、吉田行彦。加入当初はトップ・テナーだったが、小保方淳とパートを交代し、その後セカンド・テナーになった。俳優の大木実の下で書生生活を送っていた1957年に加入。デューク・エイセスが50周年を迎えた2005年以後は、ソロ歌手としての活動も行っている。2014年に脳梗塞を発症し復帰に向けて治療を続けてきたが、2015年3月に芸能界引退を発表した[4]。後任は岩田元。2020年2月9日、午前9時18分、肺炎のため東京都渋谷区の病院で死去、享年84歳。葬儀・告別式は近親者で行った。2020年7月28日の「徹子の部屋」上半期追悼特集にて、吉田の追悼が放送された。

代表曲

「にほんのうた」シリーズ

作詞が永六輔、作曲がいずみたくによる、1966年から1970年にかけて東芝音楽工業から発表された曲である。日本各地を 二人が旅をして、その土地の風情を織り込んだオリジナルのご当地ソングで、第8回日本レコード大賞の企画賞および第10回特別賞を受賞している。以下の曲はいずれもこのシリーズの収録曲である。デューク・エイセスもスケジュールの合間を縫って旅に同行した。

テレビ主題歌・挿入歌

CMソング

テーマソング・社歌・市歌

  • 千林商店街テーマソング:大阪市旭区千林にある商店街のテーマソング。10分に1回、商店街一帯に流れている。
  • 551蓬莱 社歌
  • おもちゃのあおきのテーマ(おもちゃのあおき)1970年制作 今でも店内ミュージックやTVCMソング、西肥バスの委託会社であるさせぼバスの案内放送CMとして流れている。
  • お好み焼徳川のテーマ(東洋観光グループお好み焼徳川)1975年にCM開始し、現在でも流れている。
  • ライフコーポレーション 社歌「マイマイハッピーライフ」
  • EMIミュージック・ジャパン 社歌「青い空に歌おうよ」
  • CSK社歌、CSKズッコケ音頭 - 2曲共に非売品CD『CSKのうた』に収録された。
  • 川越百万灯夏祭りテーマソング「ふれあいサンバKAWAGOE」
  • 九州旅客鉄道 野球部応援歌「鉄路轟轟」
  • 草加市 市歌「想い出はいつも」
  • 木更津市 盆踊り唄「やっさいもっさい」(歌唱担当)
  • 浦安市 市歌「海と緑のまち 浦安市民の歌」
  • 名張市 名張市民の歌 あなたとわたし 市政25周年記念
  • 綾瀬市 市歌「綾瀬市民の歌」
  • 江別市 100年記念「江別市民音頭(江別のびのび音頭)/風はみどり」
  • ああ尼崎市民家族:尼崎市市制70周年記念制作曲。FM aiai平日正午の時報を兼ねて放送される。また尼崎市バスの車内放送において、終点到着時のみインストゥルメンタルが流れていた(同事業者の阪神バス路線移譲後は消滅)。
  • アブダビ石油 「ガルフブルース」 海外赴任の社員のために、自主製作版として制作された。
  • セコム社歌

その他に、下記で紹介する黒人霊歌やジャズコーラス、坂本九の『見上げてごらん夜の星を』のカバーや日本の唱歌なども多く歌っている。


出典

注釈

  1. ^ 1972年発売のLP「秋場所」では真木野だが、1974年発売のLP「18年目のコンサート」では槙野になっている。
  2. ^ 「ヤング101の歌」として作詞家の山川啓介と共作した「人生、すばらしきドラマ」は、合歓ポピュラーフェスティバル'71の入賞曲の一つに選ばれた。
  3. ^ 2003年10月21日夜、22日昼、夜の計3回にわたってBunkamuraシアターコクーンにて開かれたヤング101復活コンサート『ステージ101〜明日に架ける橋』にも出演した。


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