セウ寺院 歴史

セウ寺院

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/03/12 17:30 UTC 版)

歴史

建立

ケルラク碑文英語版(西暦782年)

セウ寺院の南約500メートル[20] (450m[21]) に位置するルンブン寺院(チャンディ・ルンブン、: Candi Lumbung)の近郊より、西暦782年のケルラク碑文が発見され[22][23]、碑文にはマンジュシュリー(文殊師利)像の奉献について記されていた[24][25]。建立された寺院はルンブン寺院[23]ないしセウ寺院を指すものと考えられるが[14]、1960年に[26]セウ寺院の南西側のプルワラ祠堂 (number 202[26]) の階段の傍より発見された西暦792年のマンジュスリグラ碑文(「文殊師利祠堂」刻文[13])に、マンジュスリグラ(文殊師利祠堂)の増拡(マウルディ[27]: mawṛddhi〉)について記されていたことから、782年に文殊師利が奉献されたのはセウ寺院であり、そのセウ寺院の主祠堂が、792年に増拡されたものとする説が有力である[22]

碑文の記述をセウ寺院であるとすると[14][22]、セウ寺院は、古マタラム王国サンジャヤ王統英語版[28])の第2代王ラカイ・パナンカラン英語版760-780年[29])の治世が終わる8世紀末に、Śailendravaṃṣatilaka: the ornament of the Shailendra dynasty、「シャイレーンドラ王家の装飾」の意)であるシャイレーンドラ朝の王インドラ(ダラニンドラ英語版)、即位名サングラーマダナンジャヤ(: Saṁgrāmadhanaṁjaya[30]、782-812年[29][31])の命を受けた王師クマーラゴーシャ(: Kumāraghoṣa)がマンジュシュリー(文殊師利)像を奉献したことにより建立された[24][32]

これによりセウ寺院は、プランバナンの近隣のヒンドゥー教シヴァ派寺院であるプランバナン寺院より50-70年余り前[33]、仏教寺院であるボロブドゥール寺院の当初の着工とほぼ同時代に創建され[34]。マンジュスリグラ碑文により、その後792年に増拡によって改変されたものとされる[1]。セウ寺院はケウ平原(プランバナン平野)の地域において最大の仏教寺院であり、マンジュスリグラ碑文は完成した寺院複合体の尖塔の美しさを讃えている。

セウ寺院の南300メートルに位置するブブラ寺院(チャンディ・ブブラ、: Candi Bubrah)と[35]東300メートルに位置するガナ寺院(チャンディ・ガナ、: Candi Gana〈チャンディ・アスゥ、: Candi Asu〉)は[36]、おそらくマンジュスリグラ複合体の前衛寺院としての役割を果たし、セウ寺院を囲む東西南北を守護していた[37]。セウ寺院の北250メートルにロル寺院(チャンディ・ロル、: Candi Lor[38]、西方にはクロン寺院(チャンディ・クロン、: Candi Kulon)の遺構も認められるが[37]、それらの場所にはわずかな石材が残るのみであり、ともにほぼ消失した状態にある。

伝承

セウ寺院遺跡(1852年)

ムラピ山周辺の構造物は、火山活動の影響のもとに荒廃したが、寺院の遺構は地元のジャワ住人より完全に忘れ去られたわけではなかった。しかし、寺院の起源については謎に包まれていた。そして何世紀にもわたって村民により語り継がれた大男と呪われた王女の伝承が物語や伝説に取り込まれていった。プランバナン寺院とセウ寺院は超自然的な由緒を持つといわれ、ロロ・ジョングラン伝説英語版において、それらの寺院はバンドゥン・ボンドウォソ (Bandung Bondowoso) の命のもと幾多の地の精霊により一夜にして建造され[39]、その千番目となる寺院がセウ寺院であったとされる。このような物語により、遺跡には超自然的な霊的存在が出没すると信じていた地元の村民は、寺院の石材を一切持ち去らなかったことから、寺院はおそらくジャワ戦争1825-1830年)に先立つ何世紀にもわたり保存されたものと考えられる。

再発見

1733年マタラム王国の王パクブウォノ2世英語版(在位1726-1749年[40]が、オランダ東インド会社オランダ語: Verenigde Oost-Indische Compagnie、略称: VOC)のロンス[41] (Cornelius Antonie Lons) にマタラムの中心地を通る旅行に向かうことを許した。この旅行におけるロンスの報告は、セウ寺院やプランバナン寺院について最初の記述があるものとして知られる[42]1806-1807年には、オランダの考古学者ヘルマン・コルネリウスオランダ語版がセウ寺院を発掘し、セウ寺院の主祠堂とプルワラ(: Perwara)と呼ばれる祠堂のリトグラフを初めて作成した[43]イギリスの短いオランダ領東インドの支配の後、スタンフォード・ラッフルズは、1817年の著書『ジャワ誌英語版』(“The History of Java”)に[44][45]、コルネリウスのセウ寺院の素描を掲載した。1825年頃には、ベルギーの建築家オーギュスト・パイエン英語版が一連のセウ寺院の写像を作成している[43]

1825年から1830年にかけてのジャワ戦争の間に、寺院の石材の一部が運び去られ防備に使用された[43]。その後の数年間も寺院は略奪の被害を受けた。仏像の多くは断首され、その仏頭が盗まれた。一部のオランダ人入植者は彫刻を盗んで装飾品として使用し、また地元のジャワ人はその礎石を建設資材として使用した[46]。寺院の最もよく保存された浮き彫り、仏頭、それにいくつかの装飾が遺跡から持ち去られ、海外の博物館や個人の収集物となった。

調査・修復

セウ寺院の主祠堂(1865年)撮影: ファン・キンスベルゲン英語版

1867年の地震により主祠堂の円い屋蓋(屋根)は崩壊したが、ファン・キンスベルゲン英語版が、それ以前のセウ寺院の遺構を撮影している。その後、1885年アイゼルマンオランダ語版は、以前コルネリウスによって作成された寺院複合体の図面にいくつかの修正を加えて、寺院の状態に関する記録を作成した。そこには仏頭がいくつか失していたと記されるが、それらの仏頭はいずれも1978年までにすべて残らず遺跡より略奪されている[47]

修復以前のセウ寺院主祠堂(1890-1930年)

1908年ファン・エルプオランダ語版により主祠堂が清掃され修復が開始され、その後、ドゥ・ハーン (De Haan) が、ファン・キンスベルゲンの写真を用いてプルワラ祠堂の復元作業を行なった[47]。次いで1923年より、セウ寺院はクロムインドネシア語版ストゥッテルハイムインドネシア語版らの考古学者による研究の対象となり、1950年にはドゥ・カスパリス (Johannes Gijsbertus de Casparis) もこの寺院について研究している。そしていずれの考古学者も、寺院はおおよそ9世紀のうちに建立されたものであるとしていた[48]。しかし、1960年に発見されたマンジュスリグラ碑文は、西暦792年のものであったことから[22]、寺院はより早い8世紀末に建立されたと考えられる[26]1981年にかけて、ジャック・デュマルセ (Jacques Dumarçay) は寺院の綿密な調査を実施した[49]

20世紀初頭以降、寺院は徐々にかつ慎重に修復されているが、完全には復元されていない。何百基もの祠堂の遺構があり、その多くの石材は失われている。1927-1928年に主祠堂およびその他の祠堂の一部が修復され、1980年代になり大規模な修復工事が行なわれた[4]。主祠堂の修復および東側の2基の祠堂は1993年に完成し、1993年2月20日にスハルト大統領により落成した。しかし、寺院は2006年ジャワ島中部地震において多大な損傷を被った。構造的被害は甚大であり、中央祠堂は最悪の被害を受けた。大きな破片が地面に散乱し、石材には亀裂が見つかった。中央祠堂が崩れないよう四隅に金属フレームの骨組みが立てられ、主祠堂を支えるために取り付けられた。数週間後に遺跡は訪問者のために再開されたが、2006年より主祠堂は安全上の理由で閉鎖されたままであった。その後、金属フレームは取り外され、現在、訪問者は主祠堂を参観し入場可能である。また、年中行事であるウェーサーカ祭: Waisak)がセウ寺院において開催される[50]


  1. ^ a b c d 小野 (2002)、271-272頁
  2. ^ a b c Degroot (2009), p. 237
  3. ^ a b c 伊東 (1992)、90頁
  4. ^ a b c d e 『インドネシアの事典』 (1991)、253頁
  5. ^ プランバナン寺院遺跡公園”. ジャワ島旅行情報サイト. 2020年3月19日閲覧。
  6. ^ Degroot (2009), p. 291
  7. ^ a b c d e f g h Candi Sewu” (インドネシア語). Kepustakaan Candi. Perpustakaan Nasional Republik Indonesia (2014年). 2020年3月22日閲覧。
  8. ^ SEAlang Library Javanese”. sealang.net. 2020年3月19日閲覧。
  9. ^ 『インドネシアの事典』 (1991)、273-274頁
  10. ^ a b デュマルセ (1996)、86-88頁
  11. ^ a b c d 伊東 (1992)、87頁
  12. ^ デュマルセ (1996)、86頁
  13. ^ a b c 石井 (1992)、22-23頁
  14. ^ a b c d e 石井 (1992)、22頁
  15. ^ a b Schliesinger, Joachim (2016). Origin of Man in Southeast Asia 5: Part 2; Hindu Temples in the Malay Peninsula and Archipelago. Booksmango. p. 7. ISBN 9781633237308. https://books.google.com/books?id=fIu9CwAAQBAJ&pg=PA7&lpg=PA7&dq=Manjusrigrha+inscription&source=bl&ots=WNUE7WpSjp&sig=ijKL80GtGcruleZPF3XHfebc4so&hl=id&sa=X&ved=0ahUKEwj3vNSo_vvMAhULt48KHcbjAGMQ6AEIRzAF#v=onepage&q=Manjusrigrha%20inscription&f=false 
  16. ^ Coedès, George (1975) [1964 (French ed.) 1968 (English ed.)]. Walter F. Vella. ed (PDF). The Indianized States of Southeast Asia. trans. Susan Brown Cowing. Australian National University Press. p. 89. ISBN 0-7081-0140-2. https://openresearch-repository.anu.edu.au/bitstream/1885/115019/2/b11055005.pdf 2020年3月19日閲覧。 
  17. ^ 文殊師利”. コトバンク. 朝日新聞社. 2020年3月19日閲覧。
  18. ^ Prājñā”. コトバンク. 朝日新聞社. 2020年3月19日閲覧。
  19. ^ 文殊菩薩”. コトバンク. 朝日新聞社. 2020年3月19日閲覧。
  20. ^ 小野 (2002)、273頁
  21. ^ Degroot (2009), p. 245
  22. ^ a b c d e f 小野 (2002)、271頁
  23. ^ a b Acri (2016), p. 207
  24. ^ a b 岩本裕「Sailendra 王朝と Candi Borobudur」『東南アジア -歴史と文化-』第1981巻第10号、東南アジア学会、1981年、17-38頁、2020年3月22日閲覧 
  25. ^ 伊藤奈保子「ジャワの Vairocana 仏像 - 小金銅仏を中心として」『佛教文化学会紀要』第1997巻第6号、佛教文化学会、1997年、99-129頁、2020年3月22日閲覧 
  26. ^ a b c Dumarçay (2007), p. 17
  27. ^ デュマルセ (1996)、116頁
  28. ^ 深見 「ジャワの初期王権」『岩波講座 東南アジア史 1』 (2001)、301頁
  29. ^ a b デュマルセ (1996)、11頁
  30. ^ 岩本裕ボロブドールの仏教」(PDF)『東洋学術研究』第102号、東洋学術研究所、1982年5月10日、107-130頁、2020年3月19日閲覧 
  31. ^ 『インドネシアの事典』 (1991)、407頁
  32. ^ 伊藤奈保子「ジャワの Vairocana 仏像 - 小金銅仏を中心として」『佛教文化学会紀要』第1997巻第6号、佛教文化学会、1997年、99-129頁、2020年3月19日閲覧 
  33. ^ デュマルセ (1996)、94-95頁
  34. ^ デュマルセ (1996)、14・26・94-95頁
  35. ^ Degroot (2009), pp. 237 244
  36. ^ Degroot (2009), pp. 228 237
  37. ^ a b c 小野 (2002)、276頁
  38. ^ Degroot (2009), pp. 229 237
  39. ^ 井口 (2013)、248-251頁
  40. ^ 『インドネシアの事典』 (1991)、205頁
  41. ^ 井口 (2013)、234頁
  42. ^ Jordaan, Roy (2013-09) (PDF). The Lost Gatekeeper Statues of Candi Prambanan: A Glimpse of the VOC Beginnings of Javanese Archaeology. NSC Working Paper No. 14. Nalanda-Sriwijaya Centre. pp. 2-4. https://iseas.edu.sg/images/pdf/nsc_working_paper_series_14.pdf 
  43. ^ a b c Dumarçay (2007), p. 15
  44. ^ 信夫清三郎 『ラッフルズ伝 - イギリス近代的植民政策の形成と東洋社会』平凡社〈東洋文庫 123〉、1968年 (原著1943年)、244頁。 
  45. ^ 坪井祐司 『ラッフルズ - 海の東南アジア世界と「近代」』山川出版社〈世界史リブレット 人 68〉、2019年、78頁。ISBN 978-4-634-35068-7 
  46. ^ 鳴海邦碩、小浦久子 『失われた風景を求めて - 災害の復興、そして景観』大阪大学出版会、2008年、10頁。ISBN 978-4-87259-239-9 
  47. ^ a b Dumarçay (2007), p. 16
  48. ^ Dumarçay (2007), pp. 16-17
  49. ^ Dumarçay (2007)
  50. ^ BPCB Jateng (2018年6月7日). “Ribuan Umat Buddha Rayakan Waisak di Candi Sewu” (インドネシア語). Balai Pelestarian Cagar Budaya Jawa Tengah, Direktorat Jenderal Kebudayaan. 2020年3月22日閲覧。
  51. ^ a b 小野 (2002)、275頁
  52. ^ 伊東照司 『インドネシア美術入門』雄山閣、1989年、22頁。ISBN 4-639-00926-7 
  53. ^ デュマルセ (1996)、92頁
  54. ^ a b c デュマルセ (1996)、88頁
  55. ^ a b 小野 (2002)、272頁
  56. ^ a b Degroot (2009), p. 240
  57. ^ a b c d e Degroot (2009), p. 238
  58. ^ a b c d Degroot (2009), p. 239
  59. ^ a b デュマルセ (1996)、87頁
  60. ^ 伊東 (1992)、87・90頁
  61. ^ 橋本哲夫「古代インド建築家たちのマンダラ - maṇḍalipākāra は「円い城壁」か?」『印度學佛敎學研究』第54巻第1号、日本印度学仏教学会、2005年12月、304-312頁、2020年3月19日閲覧 





英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  
  •  セウ寺院のページへのリンク

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「セウ寺院」の関連用語

セウ寺院のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



セウ寺院のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのセウ寺院 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS