オート三輪 軽3輪トラックブーム

オート三輪

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/11/09 05:05 UTC 版)

軽3輪トラックブーム

ダイハツ・ミゼットMP4
後期型。2012年5月撮影
マツダ・K360 2005年2月撮影

小型車規格のオート三輪市場が最盛期を迎えていた1950年代前半、1949年に制定された軽自動車の幅員規格拡大に伴い、軽自動車規格のオート三輪が市場に出現した。もともと当時の軽自動車枠は2輪ないし3輪の小型車を想定したものであり、1924年に制定された戦前の無免許小型自動車規格(排気量最大350ccまで)とも類似した、この種の簡易な小型車両に適合するカテゴリであった。

最初の事例は1952年の大宮冨士工業(のち富士重工業に合併)の「ダイナスター」で、同系列の富士自動車工業製「ラビットスクーター」のコンポーネンツを利用したものであった。また同年に兵庫県西宮市の光栄工業が開発した「ライトポニー」は、前1輪とエンジン回りのドライブトレインを1つのケースに収め、無動力の小径2輪を装備した軽量構造の荷台部分を牽引させる設計で、操向時にはエンジンごと前輪が旋回するという特異な構造の前輪駆動車であり、少数の特殊事例に終わった。

続いて1953年以降、ホープ自動車をはじめとする中小・零細の新興メーカー・既存機械メーカーが細々と参入したが、技術面では、より大型のオート三輪を縮小した設計で、耐久性の高い構造を備えるホープ自動車の「ホープスター」が先進的存在であった。

軽オート三輪の開発では、ホープ式に大型車の縮小設計を用いるか、軽量二輪車をベースに拡大発展させるかの2パターンがあったが、後者の例は初期の「ダイナスター」や浜松市の零細メーカー・相生モータースの「スパーク」(1954年)など僅かに留まり、簡易構造の脆弱さが酷使に適さなかったために市場から早く脱落した。

またホープの亜流である堅実な大型車縮小タイプとしては「クノマック」(1954年 石坂商店)、「ムサシ」(1956年 旧中島飛行機系の三鷹富士産業)、「ヤシマ」(1957年 八州自動車製作所)などがあったが、量産能力や販売網に問題を抱えて成功には至らなかった。生産台数もある程度の規模を持てたホープ以外は少数で、この市場を大きく広げるまでには至らなかった。部品も既存製品のパーツ流用によるアッセンブリー生産が多く、発展には限界があった。

小型オート三輪が同クラス4輪車に圧迫され始めた時期、オート三輪業界をリードしていた有力メーカーであるダイハツは軽オート三輪の伸長に目をつけ、このニッチ市場への参入を計画した。同社が1957年に発売した「ミゼット」は、既存大手メーカーらしく酷使に耐える十分な耐久性を持たせながら、その資本力によって部品のほとんどが専用設計とされており、ホープスターなどの先発製品よりも軽易に扱え、しかも廉価であった。完成度の高さに加え、既存販売網とテレビコマーシャルの活用でミゼットは大ヒットする。

ミゼットの成功は、既存オート三輪メーカー各社に著しい刺激を与え、以後1959年までに各社はこぞって軽3輪トラックを発売、爆発的なブームとなった。

小型3輪トラックのブーム期であった終戦後混乱期とは異なり、1950年代後半ともなるとインフラが整い、規格を満たしたガソリンの安定供給にもある程度の見通しがついたことから、各メーカーはエンジン技術でも様々な試みを行っている。バリエーションは多種多様で、排気量は300ccから360ccの範囲内であるが、クランクケース圧縮式2ストロークOHV4ストロークの単気筒だけでなく、3輪/4輪両用に開発された直列2気筒、バイク用類似のV型2気筒も存在した。

一見百花繚乱の商品の充実振りであったが、同時期の小型3輪トラックの終焉と並行し、軽3輪トラックはほどなく、同じように後発の4輪軽トラックに追われることになる。小型3輪とは異なり、(軽自動車枠の縛りのため)大型化や極度なデラックス化には至らなかったが、ホープやミゼットを上回る設計としてドア付き密閉式キャビン・丸ハンドル・並列2座席構造を採用することが常識化した(先発両車も同様にグレードアップした)。だがドアの追加と並列2座化に伴い、単座オート3輪のような軽便性は上位の小型3輪同様に失われ、4輪車のように効率的なフルキャブオーバー構造を採れない3輪車の弱点(構造上セミキャブオーバーにせざるを得ず荷台が短くなる)が、軽自動車規格による制限を受ける軽オート3輪で顕在化した。

オート三輪メーカー各社の中で唯一軽3輪に手を出さなかった東急くろがね工業はいち早く、1959年にキャブオーバー式4輪軽貨物車「くろがね・ベビー」を発売して短期間だが成功を収めた。そして、本格的な4輪軽乗用車の「スバル・360」を1958年に発売していた富士重工は、乗用車のドライブトレーンをベースとした完全な貨物車仕様のモデルを模索、1961年にキャブオーバー式の「サンバー」を発売して(当時としては)小型乗用車同様の快適性と高い耐久性から、先発のくろがね・ベビーを駆逐するほどのヒット作となった。積載性、操縦安定性、ドライバビリティ(運転性)で軽4輪が軽3輪を凌駕していることは、実用上も明白であった。

このため、非常に短期間にピークを迎えた軽3輪トラックブームは、1960年代に入ると完全な終焉に至った。既存の軽3輪メーカーのうち、上位メーカーは軽3輪の技術を活かして4輪モデルを早期開発、市場に投入することで転身と生き残りを図った。技術的、あるいは経済的理由から“スバルに匹敵する”4輪車を生産・販売する余裕のない新興や中小のメーカーは、ほとんどが1960年代前半に軽自動車生産から早期撤退ないし倒産[注釈 8]、1970年代初頭時点で最終的に独立したブランドを持つ自動車メーカーとして生き残ることができた元オート三輪メーカーは、ダイハツ、東洋工業(現マツダ)、三菱自工のみであった。

軽3輪トラックのメーカーは1960年代中期以降、小型オート三輪同様にダイハツと東洋工業のみとなった。最後の2社が軽3輪から撤退したのは、東洋工業が1969年、ダイハツが1972年である。

このように非常に短期間に終わった軽3輪トラックブームであったが、既存車が比較的後年まで現存し、1970年代 - 1980年代生まれの世代にも馴染み深いこと、また現在においても小型オート三輪に比べて残存率が高く、後の世代の人々も目にする機会がある[注釈 9] こと、『稲村ジェーン』や『ALWAYS 三丁目の夕日』、あるいは『こちら葛飾区亀有公園前派出所』等の1960年代 - 1970年代前半を懐古的に描いた映画や漫画等に頻繁に登場することなどから、一般にも「オート三輪」の名から軽3輪トラック(ことに「ミゼット」)をイメージする構図が生じている。


注釈

  1. ^ 前一輪後二輪の車両は斜め前に引く力に弱い。特に旋回中にブレーキを使った場合、制動による慣性力と遠心力の合成により斜め前に力が働き、前一輪では横方向に踏ん張りが効かず内側後輪が持ち上がる。多くはハンドルとブレーキを戻せば避けられるが、ハンドルを切りパニックブレーキをかける事でより回転が増し容易に横転する。
  2. ^ 通常、三輪の車両は、前2輪・後1輪のレイアウトの方が転倒しにくい。しかし、フロントカーの場合は前輪だけでなく、前方のシャーシおよび荷台も含めて操向される原始的構造のため、重量負担による操向性の悪化や、前方視界が荷物で塞がれるなどの難を抱えており、操向が簡易で、後方荷台式としやすい後2輪式の方が実用的であった。低速であれば前1輪でも安定性の問題は少なかった。
  3. ^ 現代のような車検制度が整っていなかった当時、ユーザー側では350cc車として登録したうえで、エンジンをボアアップしたり大排気量エンジンに積み替えるなどの脱法行為でパワーを上げる事例が多々あった。これには当然、技術的な必要から販売店側が加担していた。
  4. ^ 日本のオート三輪全体の生産量は1949年下半期平均で2,700台/月であったが、朝鮮戦争勃発後には3,800台/月に増大したという[3]
  5. ^ オート三輪は前輪荷重について安定性確保の見地から20%以上の負担を求められていたが、小型自動車工業会からの実験結果に基づく要請もあり、1952年9月に運輸省保安局はオート三輪の前輪荷重限界を18%に引下げた。重量配分の変更に自由度が高まり、許容荷重が増加した。
  6. ^ 以後製造された小型自動車扱いのオート三輪は、長尺貨物用のストレッチモデルについてこの寸法を上限としている。
  7. ^ 低速でも前1輪式の3輪車が旋回時に転倒しやすいことは古くから認識されていたが、車両が大型化し、同時に1950年代以降の道路事情の変化(拡幅・舗装の進展)で自動車交通が40km/h - 60km程度の速度で流れるようになると、この欠点は更に顕在化した。このことから、高速自動車国道での法定最高速度大型貨物自動車と同じく80km/hに制限されている。
  8. ^ 新興メーカーの代表であったホープ自動車(現ホープ)は1965年に撤退している。同社が最後に自動車メーカーとして再起をかけた製品が軽4輪駆動車ON型で、再起はならなかったもののその技術的系譜はジムニーに受け継がれる事になる。なお、2輪も4輪も手がけるスズキ自体はオート三輪を初め、三輪自動車の生産販売を行ったことはない。
  9. ^ 軽貨物自動車であるため、趣味的に所有するにしても登録車のオート三輪に比べてはるかに維持コストが安くハードルが低い。
  10. ^ 高い確率で荷崩れが想定される場合は高速道路を走行すること自体ができないため。

出典

  1. ^ 呂寅満『日本自動車工業史』(東京大学出版会 2011年)p324。
  2. ^ 呂、前掲書 p332。
  3. ^ 呂、前掲書 p333。
  4. ^ 呂、前掲書 p334・p336[注釈 5]
  5. ^ 呂、前掲書 p336。
  6. ^ a b “「オート三輪」そっくりEV 川崎市のベンチャーが発売”. 朝日新聞. (2015年6月16日) 
  7. ^ Group, Piaggio. “Gamma Ape - Piaggio Veicoli Commerciali” (イタリア語). www.piaggiocommercialvehicles.com. 2020年5月11日閲覧。
  8. ^ 第65回:軽3輪トラック「アペ」のある風景 ウェブ写真展開催! 【マッキナ あらモーダ!】 2ページ目”. webCG. 2020年5月11日閲覧。
  9. ^ インドの国際自動三輪レース、最終目的地ムンバイに到着(2007年8月18日 AFP通信)





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